神子と裏切り者【2】




「裏切りものもこれでおしまい、だな。最期に言い残すことはあるか?『暁』の野郎に伝言ぐらいはしてやるぜ?」


 目の前の男にみすみす殺されてやる気はなかったが、背後は壁。逃げ場を失ったクロウは剣を握る手に力を込める。

 日頃の行いが悪かったからだろうか。

 クロウは太陽の瞳を盗み出そうとまで考えた自分の行動を思い起こす。

 後悔なら―――たくさんある。

 家族。

 そう、

 兄のこと。

 大切なあの子のこと。

 それから、

 自分を信じてくれたカイのこと。

 皆、どうか元気で。

 心の中で呟いてクロウは目を瞑った。

 ビュッブオオン―――

 男の持つ剣が有らん限りの力で振り下ろされ、空を切り風が渦巻く音が聞こえる。

 ああ、何も出来ないまま自分は死ぬのだ。

 と、クロウは思った。

 けれど、

 ギンッ!


「うぬぅ……ぅ」


 顔前で起こった風と金属が弾き飛ぶ音。続いて響く呻き声。突然逸れた風の軌道に、クロウはゆっくりと目を開けた。

 コトンッと目の前にナイフが落ちる。


「クロウ! 間に合ってよかった!」


 光に霞む目で捉えた姿はぼやけていた。しかし、声だけは確かに届いた。

 まだ声変わりを終えていない少年特有のよく通る声―――クロウが逃がした少年の声が。


「カイ? なぜ逃げなかった!」


 駆け寄ってきた少年に、クロウは一種の眩暈を覚え呟いた。

 あのまま逃げていれば、これ以上巻き込まれることはなかったのに。

 なぜ逃げなかった。

 なぜ自分を助けに来た。

 なぜ―――


「それはあんたの自己満足だろ」


 クロウの問い掛けに答えたのはカイの隣に立つ女性。否、女性というにはまだ幼さの残る彼女は、少女と表現したほうが相応しい。

 そしてその幼さは時に残酷で、少女は言葉を飾ろうとはしなかった。


「あんたはこの子を逃がしたかったのかもしれないが、この子はあんたを助けることを選んだ。この子が自分の意思に従って行った行為を、あんたに咎める筋合いはない。そして何より、今はそれを責める時ではないだろう―――」


 すぅっと少女の目が細められ、乱入者の登場に間合いを取るように離れた黒マントの男に向けられた。


「セトの配下がこのようなところで何をしている」

「それは俺が知りたいね、ホルスの神子。俺はその裏切り者を狩りに来たまで。それなのに、裏切り者を助けに駆けつけたのは、《女神の涙》の町で『戦慄』に足止めされてるはずの神子殿ときたもんだ」


 ホルスの神子だって?

 じゃあ彼女は―――

 いや、彼は―――

 

 二人のやり取りにクロウは目を見開いた。

 けれど、驚きを隠せないクロウを置き去りにして会話は続く。


「『戦慄』? ああ! あの変態のことか。あいつなら、まだ《女神の涙》の町で俺を探してるんじゃないか?」

「ふん、あの馬鹿はまんまと撒かれちまったってことか。じゃあ、ここで俺が尻拭いしなきゃならないって訳だな。めんどくせぇなぁ、おい」


 ぽりぽりと頭をかき男は剣を構え直した。それに応じて神子もすっと背筋を伸ばし、短剣を胸の前で構える。

 見たこともない独特の構えだ、とクロウは思った。


「こちらもここまで来て、足止めをくらう訳にはいかないからな。本気で行かせて貰う!」


 神子が高らかに宣言して地を蹴った。クロウに寄り添うようにして一部始終を見ていたカイが、目尻に涙を浮かべ、服を掴む手に力を込める。

 男と神子との体格差は歴然としていた。体格差イコール強さの差という訳ではないが、体格が違えばもちろん力(パワー)も違ってくる。

 大人であるクロウから見ても不利だと思えるこの戦いを、子供であるカイが神子の負けを予測しないはずがなかった。だから、クロウは心配そうなカイをほおっておくことが出来ず、優しく言葉を掛けた。


「大丈夫だ、心配するな」







 風を感じて、天を感じ―――

 光を感じて、地を感じる―――

 風に誘われ、天で舞い―――

 光に誘われ、地で舞う―――


 力任せに繰り出される男の斬撃をふわりとかわし、セフィアは手首を翻す。

 いつも、その手にあったのは扇だった。

 けれど今、その手にあるのは短剣だ。

 それは、

 紛うことなき武器。

 それでも、

 惑うことなき心。

 惑うことなき心で以って、紛うことなき武器を振るう。

 手にするものは違えども、基本は同じ。

 世界の理を知り、己が世界の一部であることを悟る。そうすれば、風が剣の軌道を教え、光が男の動きを教えてくれる。


「綺麗……」

 

 舞うように短剣を振るう女の姿に、カイは掴んでいたクロウの服から手を放し、思わず呟きをもらした。見上げれば、クロウもぽかんと口を開け、ただ、ただ、その姿に囚われている。

 カイは、静かに視線を、目の前舞う女に戻す。

 風を感じて、天を感じ―――

 光を感じて、地を感じる―――

 風に誘われ、天で舞い―――

 光に誘われ、地で舞う―――

 すると声が聞こえた。目の前で舞う女の声だ。それは実際音にならざる声だったが、カイには確かに聞こえてきた。

 女は言った。

 ホルス、見えているか? これが、俺が見てきた世界のすべてだ、と―――。

 瞬間。

 視界が開けた。

 広がる色彩。

 広がる音色。

 広がる香り。

 広がる熱。


「これが、世界―――?」


 風に揺れる小麦畑。

 賑う市に色とりどりの果物。

 地に影を落とし悠々と飛ぶ隼。

 その空は青く、何処までも続く。

 そして、そこに浮かぶのは温かな光を放つ―――太陽。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚―――全身で以って世界を受け止める。


「あたたかい……」


 自分を取り巻く世界の心地よさに、カイは目を瞑る。

 世界のどこにでも自分は存在し、自分がどこにいても世界は愛してくれる―――そんな感覚。

 世界のあたたかさに包まれて、カイの意識は、

 深く―――

 深く―――

 沈んでいった。


 セフィアが綺麗に着地をきめれば、今しがたまで剣を交えていた相手の体がぐらりと傾き、ドサンッと砂埃と共に地に伏した。

 男の体のあちこちには血の滲んだいくつもの切り傷があり、心の臓を貫くように刺さった短剣がなんとも痛々しい。男との対戦を終えたセフィアは、血の染み一つ付いていない白い衣装を揺らし、男に歩み寄った。

 男は死に、セフィアが勝ったように思われる。

 男に歩み寄ったセフィアは男の死を確認しようと、おもむろに男の顔を覆うフードの手を掛けた。

 刹那。


「――――――!」


 バサッバサッバサッバサッバサッバサッバサ―――

 キイィィィィィィィィィィィィィィィ――――――

 視界一面の黒。黒。黒。黒。

 男だったはずのものは、何十羽ものコウモリと化し、空に消えていく。


「『宵の誘(いざな)い』アイザック」


 クロウが記憶から手繰り寄せたその名を口にする。セフィアはその呟きをしっかりと耳にした。眉を

顰めセフィアはクロウを振り返る。


「奴らの名を知り、奴らが裏切り者と呼ぶお前は何者だ」

「私は夜の民―――カイがクロウと呼ぶ人物である以外の何者でもないさ」


 その問いに静かに答えるクロウ。その目は自分に凭れ掛かるように規則正しく寝息を立て始めたカイを愛しそうに見詰めている。


「だが―――あなたがもしそれ以上のことを知りたいというのなら、我々は場所を移さなければならない。違うか、ホルスの神子」


 そう言って、カイを抱きかかえるとクロウは歩き出した。

 尤もなことだ。

 と、唇を噛んだセフィアは、クロウの言葉に従うようにその後に続く。


 神子と裏切り者、そして少年。

 この出会いの現す意味は―――

 この時まだ誰も知りえなかった。






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