悪夢を誘う訪問者【2】
あの日のうちにウジャト神殿を出立して、セフィアは商業の町、《女神の涙》の町に辿り着いていた。
何度かこの町を訪れたことのあるセフィアだが、何度来てもこの町は飽きることがない。
一言で言うならば、色で溢れているのだ。
砂よけのマントや日除けのショール。行きかう人々の服装は勿論。商業の町と謳われるだけのことはある。様々な地域の色鮮やかな野菜やフルーツ、はたまた織物が大通りに沿った露天の店先に並ぶ。物資と人が行き交う街は、市の立たない日はなく、賑わいは途絶えることを知らない。
そんな賑わいの中。露店のうちに、一際目を引く鮮やかなフルーツをかご一杯に詰めた果物屋が目に留まった。
「オレンジを一つ頂けますか」
暇を持て余し、たっぷり生やした顎鬚を弄っていた老年の男は、セフィアの姿を見て、愛想良く笑顔を浮かべた。
「一つでいいのかい、お譲ちゃん。なんだったらおまけしておくよ」
お嬢ちゃんって――おい、おい……。
整った自分の容姿は理解しているが、自分はそんなに幼く見えるのだろうか。内心むっとしながら、表面あくまで嬉しげに、セフィアは微笑む。
「本当ですか―――嬉しいな」
でも、まあ、いっか。おまけしてくれるって言ってる訳だし……。
と、思うことにする。
セフィアは、裏表の性格の差が激しい。それは、旅の中で身につけた処世術だ。
昼の民の中でも、とりわけ目を引く艶やかな蜂蜜色の髪。その髪を結い上げた美しい旅人が愛想良く笑えば、大抵の者は警戒を解き、親身になって旅の手助けをしてくれる。今回のように立ち寄った店や宿でおまけしてもらえることも珍しくない。
まあ、逆に招かれざる客を呼び寄せてしまうことも多いのだが。
果物屋の主人から受け取った二つのオレンジのうち、一つを鞄に仕舞い、もう一つを手で弄びながら、大通りを逸れた裏通りへ入る。そして、顕著になった気配にセフィアは疲れたように溜め息を吐いた。
やっぱり。
どこにでもいるんだよなぁ。
命知らずって。
「隠れてないで、出て来たらどうだ?」
内心で溜め息を吐き、背後の物陰に向けて声を投げ掛ける。物陰の後ろの気配が一瞬ざわめいた。気配の主達は気付かれているとは思っていなかったようだ。しばらくして、気配の主達は物陰から姿を現した。
体格の良い筋肉質の大柄な男と、それとは正反対に小柄で痩せた男。そのどちらも、いかにも悪人といった凶悪面を晒していて、セフィアは思わず噴出しそうになった。
「嬢ちゃん、威勢が良いのはいいが、喧嘩をうる相手は選んだほうがいいぜ。その綺麗な顔に傷は付けたくないだろ?」
痩せた男がしゃがれた声で言って、ククッと喉の奥で笑う。男の物言いもそうだが、男のその笑い方がセフィアの苛立ちを募らせる。
「そうだぜ、嬢ちゃん。黙って俺たちの言うことを聞けば、悪いようにはしないさ」
続いて筋肉質な男も口を開く。本当に気に障る物言いだ。
嬢ちゃん、ねぇ。
どいつもこいつも、観察能力に欠けるっつうか。
所詮は小者ってこと、か。
「で、結局、あんた達は俺をどうしたい訳?」
男達をわざと挑発するように、手でオレンジを弄びながらセフィアは言葉を紡ぐ。
まあ、少しぐらい遊んでやるか。と、セフィアは考える。
この先、厳しい旅が続く訳だし。
肩慣らし。
肩慣らし。
「口の悪い嬢ちゃんだな。俺たちが優しいうちに、素直に従っておけば良かったものを。嬢ちゃんは痛い目を見ないと、自分の立場が理解出来ないらしい」
読み通り。セフィアの仕草が男達の精神を逆撫でし、男達はカッとなっていきり立った。
男達は、互いに目配せをすると、セフィアとの間を、逃げ道をなくすように詰めて行く。セフィアは、脅える訳でもなく、後退る訳でもなく、オレンジを手に男達の足元に目を向けて立っていた。
「ククッ、強がった割に恐怖で動けもしないのか」
男達の腕がセフィアに伸びる――瞬間、
手にしたオレンジを握り潰し、
大柄な男の顔面目掛け、
投げつけた――
「う、ぐあぁぁぁぁぁぁ」
目に入ったオレンジの汁が殊の外効いたのか、大柄な男は目を押さえ蹲る。その様子を見て、セフィアは鮮やかに笑う。
「誰が、お前達なんかに負けるかってーの、バーカ」
思ったことを素直に口に出せば、懲りない男が殴り掛かってくる。
それを、セフィアは、
ひらり――
綺麗にかわし、男の背後にまわる。
そして。
見事なバランス感覚で足を振り上げると、前方から後方になぎ払うように、回し蹴りを――くらわせた。
腹に鮮やかに入った蹴り。
男はぐへっと呻き声をあげ、地に伏す。男が動かなくなったのを確認し、間を置かず、背後から射した影に、髪を揺らし振り返った。
刹那――
目にしたのは伸びてきた男の手。
先ほどまで目の痛みにのたうちまわっていた男が復活したらしい。
セフィアは、自分の背に合わせて身を屈めたために低くなった男の肩に手を掛け、それを土台として男を乗り越えるようにして、空中で身をひるがえした。
タンッ!
軽快な音と共に、軽く土埃が舞う中、男の背後に降り立つ。
小回りの効かない大柄な男は、慌てて振り返ろうとしたが遅すぎた。
振り返った拍子に男が見たのは、白く綺麗なセフィアの拳だった。
その拳が、男の顔にまっすぐに入り、鼻から血を流し、男は仰向けに――
倒れていった。
「ったく、小者とはいえ、ここまで骨がないとは思わなかったぜ」
「――では、次は、私と御手合わせ願えますかな、神子殿」
続いて降ってきた声。
セフィアは反射的に通りに面する建物の屋上に目をやった。
そこには、この暑い中、真っ黒なマントを頭からすっぽりと被った人影が一つ。声音から辛うじて男性だと判断で出来るものの、正体不明の男の登場に、セフィアはごくりと唾を飲む。
自分の正体を知っているとは。
正体を見破っている時点で、足元に転がる男達とは比べものにならないほどの大物だ。二人の間に緊迫した空気が流れる。
――互いに腹の探り合い。
しばらくの間、どちらも動かず――無言だった。
けれど、その行為に飽きたのか、先に動いたのは乱入者。
乱入者はマントをはためかせ、一気に地上まで降り立った。
日干し煉瓦で作られた二階建ての建物。精々十メートル。低くはないが、高くもない。けれども――。
地に足がつくと同時に膝を曲げ、衝撃を逃がしたのか……。
口で言うのは簡単でも、実際に行うのは難しい。セフィア自信も出来ないことではないだろうが、少しタイミングを間違えれば、逃がし切れなかった衝撃が確実に骨に伝わり、骨折は免れないだろう。それを、男は難なくやってのけたのである。
この男、相当出来る。
近付いた乱入者との距離に警戒を強めつつ、セフィアは尚も相手を観察する。頭からつま先までゆっくりと視線を移動させ――ある物が目に入ってきた。
男の胸元で輝く銀の留め具。
男との距離が近付いたとはいえ、この距離で断定するのは難しいが、どうやら狼を模っているだろうそれをセフィアは知っていた。
銀狼の留め具、それは―――
セトの配下である証。
ここは鎌掛けてみますか。そう思い立ちセフィアが口を開く。
「このような昼の領域にまで態々私に何の御用でしょうか、夜の御方」
「フフッ、神子殿は何もかも御見通しのようだ。さしずめ美しき昼の君との逢瀬が待ち遠しく、夜を待たずに参上したとでもお答えしておこうか。無粋な輩に先を越されてしまったようだがね」
男の言葉はすんなりとした肯定。
自分が夜の民であることを認めた男は、未だ足元に付している二人の男を鬱陶しげに見やった。
そんな男の一連の仕草に寒気を感じ、セフィアは声を張り上げる。
「寒気のする物言いは止せ。鳥肌が立つ!」
「おやおや、つれない神子殿だ」
セフィアが睨みつければ、男はその瞳で射抜かれることが至福とばかりに甘い声を発する。
「ふん、何とでも言え! 俺は生憎同性に愛を語る趣味などないんだよ! もちろん、愛を囁かれるのもまっぴらごめんだ!」
「私は、美しいものには素直な賛美を送ることにしているのだよ。そう、たとえそれが、君のような――男、であってもね」
ホルスの神子――彼女、否、彼――セフィアは、男の言葉に鼻で笑った。
「はんっ、セトの配下はどうも変態ばかりらしいな」
「随分な言われようだが、美しい昼の君を独り占め出来た分、出向いた価値はあったようだ。だが、実に惜しい。私はあなたを殺さなくてはならないのだよ、昼の君」
男はそう言うと懐から二振りの剣を取り出した。一本は大振りだが、もう一本は小振りだ。男は、その二本を胸の前で交差させるように構える。
セフィアもそれに応じて、護身用の短剣を手に臨戦態勢をとった。だが、
「う、ぐぅ」
二人の剣がぶつかり合う以前に、地面からした男の呻き声。
一瞬――
ほんの一瞬。
相手の気が――逸れる。
チャンス!
その隙を見逃さずセフィアは空に向かって叫ぶ。
「ウィン!」
ピィイルルルルルル。
セフィアの声に応えるように一声鳴き、一直線に急降下してくるのは一羽の隼であった。ウィンという名のその隼は、ホルスの使い魔であり、セフィアの旅のお供なのだ。
男は、呻き声に気を取られていたため反応が遅れ、ウィンの鋭い爪と翼が巻き起こす風に視界を遮られた。
「では――私はこれで失礼させていただきます、夜の御方」
途中で逃げ出すようで決まりは悪かったが、今はそうも言っていられない。セフィアは、ウィンに後を任せ、くるりと男に背を向けた。
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