第二大陸(1)
──第一大陸を離れた後、アイムとニャーンは西の第二大陸へ渡った。そしてそれから数日後の嵐の夜、彼女は生まれて初めての苦難に喘ぐこととなった。
「うう……う、うう……」
絶えず上下する部屋。小さな寝台に横たわり、虚ろな瞳で天井を見つめる。顔は青ざめ、息も絶え絶え。かと思えばいきなり飛び起きて自分の口を押さえ、必死の形相でアイムを見る。
「またか……」
傍の椅子に座っていた彼は、深いため息をつき、木桶を持って近付いた。その桶の中にニャーンは胃の内容物を吐き出す。
「おろろろろ……」
「だから食い過ぎるなと言ったじゃろ」
吐瀉物を受け止めた桶を置き、改めて叱りつけるアイム。常から鋭い眼差しが今はより剣呑に吊り上がっている。
対するニャーンは死にそうな顔で再び横たわった。
「こ、こんな……こんなに、揺れるなんて……」
「時化の海なら当たり前じゃ」
二人はこの時、大きな帆船に乗っていた。何故なら第二大陸の民は大半が海上に生活の場を置くからだ。
海で
それらの理由から、元々海洋国家の多かった第二大陸では多くの民が陸地を離れ、海で暮らすことを選んだ。
「ぐえっ!?」
一際大きい波を越えたようで下から突き上げる衝撃。おかげでニャーンはまたしても口を押さえて飛び起きる。
「んんんっ……!」
「ええかげんにせえよ」
苛立ちつつも桶を持ち上げるアイム。ニャーンが吐き出したものは、もはやただの液体だった。固形物はほとんど混ざっていない。吐けるだけ吐き尽くしたと見える。部屋中に立ち込める不快な匂い。つんとするそれに顔をしかめる。鼻が利く分いっそうきつい。
「ほれ、水も飲んどけ。そのままじゃ胃酸で喉が焼けるぞ」
カップを差し出すも、ニャーンは弱々しく頭を振った。
「今は……また、吐くかも……」
「まったく、この程度の揺れで情けない」
さて、どうしたものか。今度こそ落ち着いたと見て椅子に座り、考え込むアイム。出発しようとした途端この嵐が来た。それで危ないから待てと船長に引き留められたのである。しかし、これ以上長居すると星の希望が
「やはり行くか……どのみち行かねばならんしな」
主要な海上都市は回り終えた。次は陸地へ出向かねばならぬ。第二大陸の民は大半が海で暮らす。とはいえ、一部に例外もある。たとえば海上都市で居場所を無くした犯罪者だ。彼等は身を潜めにくい船から逃れ、陸へ隠れることがある。大抵はすぐに怪塵狂いや怪物に出くわして死ぬのだが、ごく稀に生き延びる驚異的な生命力の持ち主もいなくはない。
そして、それとは別に元から陸で暮らす者達もいる。他者からは「
用があるのはその両方。隠れ潜む犯罪者の一人と回遊魚の一族、そのどちらにもこの娘を紹介しておきたい。
「うむ、決めた。おい、起きろ、陸まで連れてってやる。ここよりは楽なはずじゃ」
「え……? でも、嵐が……」
うとうと眠りかけていたが、驚いて目を開けるニャーン。たしかにアイムなら暴風などものともせず突っ切って行ける。でも自分は違う。この状態で能力を上手く使える自信は無い。つまり身を守れないのだ。
アイムには考えがあるらしい。
「安心せい、嵐などすぐに止む」
「なら、船でも……」
「揺れない寝床の方が、お主もありがたかろう」
「それは、そうです……けど……」
「ほれ、おぶってやるから来い。ただし吐くんじゃないぞ」
「……お願い、します……」
実際、陸へ行けるなら行きたい。弱り切っていることもあり素直に従うニャーン。よろよろ起き上がると寝間着のまま彼の背中におぶさった。
第二大陸は第一大陸と違い、陸地はほとんど放置状態。だから怪塵狂いや怪物の発生率が高い。そう聞いているので正直言うと怖い。
だとしても、今の彼女は一刻も早く上陸したかった。獣より怪物より今は船酔いの方が恐ろしい。
「ところでお主、その体たらくで第六から第四へはどう渡ったんじゃ?」
「と、飛んで……島がいっぱいあったので、休み休み……」
「ああ、あの列島を使ったか、なるほどな」
第六大陸南東部から第四大陸北西部は晴天であれば互いの姿が見えるほど近く、無数の小島が間に連なっている。たしかに空を飛べるニャーンなら船を使う必要は無い。極端に人目を避けていたようだし、船を利用する発想さえ持たなかったのかもしれない。
両手に荷物を抱え、さらに背中に彼女をおぶったアイムは器用に足で扉を開き、廊下へ出た。裸足だからこそできる芸当。
ちなみにここは海上都市「カニーロ」を構成する船団──その中でも最も大きな権力を持つ首長の船。揺れは大きく、船体は絶えずギシギシ軋んでいる。慣れていなければこの音だけで寿命が縮むかもしれない。
普段、人々はそれぞれの船を寄せ合って連結し海上都市を形成している。そして天候が荒れると素早くそれを解体し、それぞれに波と戦い始める。連結したままだとバランスが悪く、波を受ける面積も広くなるため、大波一つでまとめて転覆してしまうからだ。操舵を誤るなどして沈んでしまった場合、周囲の船が可能な限りの救助を行って自分達の船に生存者を組み込む。つまり海上都市の首長とは最も操船が上手い船乗りでもある。
アイムは流石の膂力と体幹で少女一人と手荷物の重さなど苦にせず、揺れる船内をスタスタ歩いて行き、扉を開けた。途端に強烈な風雨と波飛沫が吹き込んで来る。
大声を出さないと人間には聞こえまい。そう判断して叫ぶ。
「おいナンジャロ!」
「おおっ!? どうしたアイム! お嬢ちゃんは大丈夫か!? なんで連れて来た!」
ナンジャロと呼ばれた男は目を真ん丸に見開いた。黒いヒゲを何本もの三つ編みにして白いシャツの間からは胸毛の茂みを露にする、むさ苦しい外見の巨漢。第二大陸南方海域を牛耳る海上都市カニーロの束ね役であり、この巨大帆船ナンジャロ・カンジャロの船長。甲板では他の船員も襲いかかる波しぶきに負けず働き続けていた。
帆は全て畳まれている。だが、周囲には他にも海上都市を構成する船が多数航海中。船同士での衝突を防ぐため監視と操船の補助は一瞬たりとも怠れない。海で暮らすとはそういうこと。
アイムは光の壁を発生させ、ニャーンに雨が当たらないようにしつつ答えた。
「船酔いが酷すぎて薬も効かん! このままじゃ死んじまいそうだから陸まで連れて行くことにした!」
「おいおい、無茶だ! オメエはともかく嬢ちゃんが死んじまうぞ!」
「安心せい! 普段はこういうことはやらんのだが、今回は特別に手助けする!」
「手助けえ?」
眉をひそめるナンジャロ。その横にニャーンを下ろすと、アイムはすぐさま甲板の上を走り始めた。この状況で横波はまずいだろうと判断し船首方向へ。
「アイム様、何を!?」
「危ねえっ!」
気付いた船員達のうち何人かが呼びかけるも、彼は構わず舳先から空中に身を投げ出す。そして光る円盤を出現させると、それを蹴ってさらに遠くへ飛んだ。たった二歩で距離は百m以上。十分な間合い。
瞬間、爆発が起こる。
「おわあああああああああああああああああああああああああああっ!?」
「オイ!! オレ様の船を沈める気か!?」
衝撃が水柱を立て、降り注ぐ大量の飛沫。驚く船員達と怒鳴るナンジャロの前に巨大な狼が現れた。ぎょっとする船員達の視線の先で海上を走り、頭を船に寄せる彼。変身したアイムである。
『おい、すまんがお主ら、その娘をワシの頭に乗せてくれ。この姿だと難しい』
「ひいいっ、喋った!?」
「馬鹿、アイム様なんだから当たり前だ! おい、手伝うぞ!」
何人かの船員が指示に従い、船に横づけする形で差し出された頭へ少女と荷物を乗せてやった。ニャーンは毛布に包まったまま震えている。
「う、うう……」
『しっかり掴まっとれ。ワシの毛を腰にでも巻くがいい』
「そうします……」
アドバイスに従い、長い毛を自身に巻き付ける彼女。ちなみに荷物はアイムが変身した瞬間、一緒に「裏」へ移動したはず。彼がまた少年の姿に戻れば「表」へ戻って来る。前に聞いた話だと、そういう仕組みなのだそうだ。彼が身に付けている非生物の物体は変身時にこっちとあっちを行き来する。
アイムはその姿勢のままナンジャロ達に別れを告げた。
『世話になったな』
「なあに、気にすんな、いつでもまた来てくれ。嬢ちゃんもな!」
「はい……」
獣毛と毛布に包まりながら頷くニャーン。海が穏やかな時にならまた来たい。その姿が急に遠ざかる。アイムが頭を持ち上げた。
『さて、それじゃあ嵐を治めるか。一宿一飯の礼代わりだ、受け取れ』
「あん?」
再び眉をひそめるナンジャロ。瞬く間に空へ駆け上がるアイム。そのまま頭上の雲の中へ消えたかと思うと、突然黒い天蓋が割れた。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォォン……。
彼方から彼方へ遥かに遠く響く雄叫び。かつて空から落ちて来た巨大な凶星。それすら砕いた咆哮で嵐を吹き散らしたらしい。人の身では翻弄されるばかりの天災とて、星獣にかかれば大した敵では無かったようだ。
「す、すげえ……」
「アイム様って、本当に強かったんだな……」
「かっけえ……」
「はっはっはっ! やってくれやがる!! オレ様の威厳も形無しじゃねえか!」
『よし、行くぞ』
カニーロ船団の無事を確かめ、彼の基準で言えばすぐそこにある第二大陸を目指し走り出すアイム。もう嵐は治まっているが、だとしても休ませるには陸の方がいい。
「むちゃくちゃ、します、ね……」
頭上からニャーンの声。やはりまだぐったりしたまま。
『たまにはな』
彼は人の成長を望んでいる。だからいつもなら余計な手出しはしない。しかしニャーンを休ませるには必要な措置だし、ナンジャロも友人。多少の贔屓はしてもよかろう。あの男は顔が広く、恩を売ることによる利も大きい。
『大陸間の行き来を維持しておるのは、主に第二大陸の出身者達だ。今の時代にあれほどの造船技術、航海術、そして海の知識を持ち合わせておる民は他におらんからな。つまり第二の連中は他の全ての大陸と繋がっとる。仲良くしといて損は無いぞ』
もちろん打算でのみ繋がっているわけではない。自分とナンジャロの関係にはそういう側面もあるというだけ。
──と、せっかく説明したのだがリアクションは無かった。アイムの優れた聴覚は耳元から発せられる微かな寝息を聴き取る。
『寝たか、まあよかろう』
今はゆっくり休めばいい。すぐにそんな余裕は無くなってしまう。なにせこれから行くところは世界でも有数の危険地帯。
『まあ、グレン相手に生き延びたお主だ、死ぬことはなかろうよ』
「すぴー、すぴー」
ぐっすり眠るニャーン。アイムの体温がいい感じに作用している。おかげで彼が邪悪な笑みを浮かべたことには一切気が付かなかった。
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