柱のシミ
その男は、目には薄く色のついた紫のメガネをかけ、顔半分に三角に折ったバンダナを巻き、鼻と口を覆っていた。暑そうだし、何より少し昔のマンガにでてくる銀行強盗のようで見た目はよくない。
高架近くの横丁は、立ち並ぶ飲み屋や焼き鳥屋の軒(のき)にぶら下がった電球の下、道路にまでテーブルが並べられている。その座り心地の悪そうなイスに腰掛け、サラリーマンが思い思い、自分が注文したつまみを囲んでいた。
「あの……」
酔ったせいで必要以上の大きさで吐かれる愚痴とコップの触れあう音。
周りの騒音に負けないよう、僕が少し大きめの声で話かける。
男は眼鏡越しに視線を向けた。その目で、男が遠目から見た印象より、結構若いことが分かった。まだ二十代くらいだろうか? 最初の印象だと四十は行っていると思ったのだが。
「実は、僕、怖い話を集めているんですか……」
お決まりの説明が終わる前に、その人はくぐもった笑い声をあげた。
「やめておけよ。怖い話だ? そんなもの聞いてもろくなことがない」
その忠告に、僕は話を聞くのをやめるどころか返って興味が強くなった。
「何か面白い経験でもあるんですか。もしあるなら、ぜひ聞かせてほしいのですが」
男は眼鏡の奥で目を細めた。
原因は何だったかな。俺はSNSで「ザノ」って奴とケンカなったんだ。
こっちが何か呟くと、向こうから突っかかってくる。向こうが何か言うと、こっちも嫌味を言わずにはいられない。やりとりを見ていた他のフォロワーが仲裁しようとしたが、意味がなかった。
直接言い合っていない時は、普通の呟きに見せかけ、それとなく嫌味を言った。空リプって言う奴だな。自分の言い分の正しさを証明するより、もう純粋に相手を傷つけることが目的のようになってしまった。
フォロー外すなり、ブロックするなりすればいいんだのだが、なんだか負けた気がしてそれもできない。多分、ザノも同じだったんだろう。
そうやって、俺たちは互いに相手の憎しみを募らせて行った。
あの事件が起こるころにはもう、スマホの画面から相手を引きずり出して殺してやりたくなっていたよ。
そんな時、パソコンやらスマホやらが置いてある机の近くの壁に、シミができているのを見つけたんだ。人の顔そっくりのシミを。
色はなんだか古い血の跡ような赤茶色。水をたっぷり含ませた絵の具で描いたように輪郭が垂れているせいで、体が溶けかけているように見えて、ホラー映画のゾンビのように不気味な感じ。
けれど大体の顔の特徴は見て取れた。太ったあごの輪郭、細い目、口は馬鹿にするような半開き。
その顔の周りにも、あぶくみたいに小さな円形状のシミがいくつか浮いていた。
「なんだこれ、気持ち悪いな」
雑巾を持ち出してこすってみたが、全然消えないんだ。洗剤を使ってみてもダメ。紙やすりを探し出してこすってみたけど、それでもダメ。結局、仕方がないから諦めて、気にしないようにした。
異変が起きたのは次の日だった。その日もよせばいいのにザノのアカウントを見てみると、興味深いツイートがあったんだよ。
なぜか顔が擦られたように痛い、という呟きが。
ざまみろと返信を書き込んで、思ったんだ。
ひょっとしたら、俺がこの壁の顔を擦ったからじゃないか?
そう考えると、なんだか急に胸がどきどきしてきた。
馬鹿げた思いつきだ。なんで、壁のシミをふいたからといって、相手の顔が痛むんだ。呪いのワラ人形じゃあるまいし。
俺も最初はそう思って、落ち着こうとしたよ。
でも、タイミングがよすぎる。シミをいじった次の日にザノに異変が表れるなんて。
それに俺は、その頃いつもいつも相手を画面から引きずり出したいと願っていた。その影響が、相手の魂の一部を呼び出して、この壁に固定したんじゃないかってな。
そもそも、こんな人の顔そっくりのシミが自然にできるもんか? 何かしら不思議な力が働かないと無理だろう。実際写真も見たことないけど、ザノ本人の顔見たら、あの壁のシミとそっくりだったんじゃないかな。
考えれば考えるほど、その思い付きが正しいように思えてきた。確かめる方法は一つしかない。
俺は、シミの顔の目の部分にテープを貼ってみた。
そうしたらどうなったと思う?
ザノは、ものもらいか何かで、眼帯をするようになったんだ。
それで俺は確信した。あのシミは、やっぱりザノと繋がっているんだ!
嬉しかったよ、安全な場所から一方的に相手を傷つける方法が手に入ったんだから!
あと、もう一つ知りたいことがあった。この、顔のシミの周りの円。これは、何か意味のあるものなのか、それともないものなのか。
試しに、その円に手ごろなピンを刺してみた。
そうしたら次の日、ザノッソのアカウントに妹が事故にあったと書き込まれていたんだ!
SNSの呟きには、ギプスをまいた腕の写真が添えられている。
『やっぱり、遺伝とかいうのはあると思うよ。バカな奴観察すると、大抵家族もバカ。兄がバカなら妹もバカwwww』
俺の空リプに、相手は怒り狂っていたよ。
でも、これで一つ分かった。顔のシミを傷つけると本人が、その周りを囲むシミを傷つけると周りの人間が傷つくらしい。
それからと言うもの、
「また家族に何か不幸が起きなきゃいいな」
と呟いておいて円いシミに釘を打ったり、ケガに気を付けろと言って顔のシミに傷をつけたりしていった。
もちろん、命を奪うほどじゃない。さすがにそれは寝ざめが悪いし、すぐ死なれてしまってはつまんないからな。
そうしていると、相手のメンタルがどんどん崩れていくのがSNSの短い文章からも分かった。
俺の呟きの後に不幸が起きるから、相手もこっちが何かしているって気づいていたかもしれない。まあ、そうだとしても俺が実際に相手のそばまで行って何かをしているわけじゃないから、防ぎようがないからな。
どんな娯楽よりも、夢中になったよ。
そんな中だよ、そんな中。ザノが呟いたんだ。
「これ、人の顔みたいじゃね?」
添えられた写真に、貧血を起こしたみたいに俺の意識が飛びかけた。
薄緑色の壁紙に浮かんでいたのは、水を含ませすぎた筆で描いた絵のようなシミだった。細い顎といい、太い眉といい、俺そっくり。そしてその周りには円い小さなシミ。
おそらくザノも俺のことを画面から引きずり出したいほど憎んでいたのだろう。だから、むこうの家にも俺のシミが出てきたんだ。
なんとかしなくちゃと思ったね。
今はまだ、相手はこのシミの秘密に気づいていない。俺が余計なことをSNSで言わなければ分からないだろう。
でも何がきっかけでザノも秘密に気づくかも知れない。そう考えると気が気じゃなかった。そんな風に怯えて暮らすのはまっぴらだ。すぐに行動を起こさなければ。
俺は灯油を買ってきた。シミごと燃やして相手を、その周りの人間を皆殺しにする。迷ったりはしなかった。やらないと、こっちがやられるんだから。
目にテープを貼って、ものもらい。釘を打って、骨折。どうやらシミにかけた呪いは、少し軽減されて相手に伝わるようだ。
だけど、燃え尽きるほどの呪いなら、かなりの被害になるはず。
それに、仮に留めを刺せなくても、大きな事件や事故なんかでザノと周りの人間全員に、同時に何かが起これば、ニュースを通してザノの住所が分かるかも知れない。
むこうの家にある俺の顔をしたシミをお祓いするにしても、誰にも触れられないようにするにしも、場所が分からなけばどうしようもないからな。
俺は、石油を柱にぶっかけて、火をつけた。自分の家に火をつけたんだ。
さっきも言ったけど、べつにためらいはなかったよ。一人暮らしだったから、家族がウ焼け死ぬ危険もなかったし、自分に敵意を持っている奴に命握られるくらいなら、ボヤを起こすくらいわけないって。
でもさあ、ガソリンじゃないけれど、石油も結構燃えるのな。うっかりして火であぶられてこの顔になったってわけ。
男はそう言うと、顔を隠していた布を捲り上げた。皮膚がちりめんのように引きつれていた。どうやってできたのか、ところどころ、縫ったような跡もある。
「自宅とはいえ、放火は大罪だ。死人が出なかったからいいが、それでもだいぶ長い間刑務所にぶち込まれたよ」
言いながら、男は布を戻す。
「それで相手は死んだの?」
僕の言葉に、布の向こうの口が少し開いた。
布と、周りのにぎやかさで気づくのが遅れたが、笑っているらしい。
「ふふふ」
だんだんと、その声が大きくなっていく。
「ハハハ、それが傑作なんだ、アハハハハハハ!」
いまやその笑いは狂気じみていた。
その笑いに驚いた飲み屋の客の一人が、ちらりとこっちを見たのが分かった。
「それがおかしいんだよ! 何も起こらなかったんだ!」
「え?」
「事件の後で、死ぬと思っていた相手は、いつものように呟いていた! 相変わらずどこで何食っただの、ケガしただの、誰かと遊んだだの、親戚が病気になっただの!」
「ああ」
僕にはカラクリが分かった気がした。
そう、生きていれば当然、いいことと悪いことがある。
「結局、たまたま人の顔っぽいシミができただけなんでしょう。あなたがそれを傷つけた後、ザノさんがたまたま不幸なツイートをしたから、それを自分が起こしたと思い込んでしまったのでは? 調べれば名前があるんじゃないかな、そういう現象」
「そんなことぐらい、俺もとっくに考えたよ」
男はニヤリと笑った。
「でもね、だとしたら一つ変なことがあるんだ。説明できないことが」
そこまで言われて、僕はようやく気付いた。
「ザノさんの家に浮かんだ、シミの形か」
「そうだよ。相手のSNSに上げられた写真…… ただの偶然で、あんなに俺と似た顔のシミができるか?」
確かに、それは少し不自然に思える。
「じゃあ、あなたはあれを何だと思っているの?」
「ひょっとしたら、悪魔みたいなものじゃないかな」
男の口調が、どこか虚(うつ)ろなものになった。
「何の悪い者の間に現れて、殺し合いをさせるんだ。もっとも、俺も相手も、二人とも生きていたんだから力は弱いのかもしれないが」
紫色のガラスの奥の目が、僕を捕らえる。
「じゃなければ、お互いに傷つけあわせて、その恨みつらみを養分にするのかも知れない」
なるほど。そういった怪異もあるのかも知れない。
「それで今、ザノの家にあるシミは?」
「俺が火をつけた日、消えたってさ。たぶん、あれは対になっていて、片方がなくなると、もう片方もなくなるんだ」
どこか安心しているような、男の口調だった。
「あんたも気を付けろよ。こんな話ばっかり集めていると、変なモノに取り憑かれるかもしれないぞ」
「肝に銘じておくよ」
僕は余裕たっぷりに笑ってみせた。
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