ピクトグラム
その五十代の男性は校門の横で中学校の校舎を見上げていた。Tシャツに大人用のジャージ姿にサンダルという姿。ちょっとやせているが、骨格はしっかりしていて、若いときはいい体格をしていたのだろう。
その人があまりにもじっと見ているので、僕もその校舎に視線を向けた。
その学校は近々解体されるらしい。校門の横の壁に、工事のお知らせが貼り付けられている。足場が組まれている途中で、まだ本格的な工事は始まっていないようだが、校庭には重機がいくつかが止まっていた。
「なんだよ」
僕が隣に立ち止まっているのに気がつくと、その男はすごむように顔を近づけてきた。
「いえ、ずいぶん熱心に校舎をご覧になってるな、って思いまして」
ついでにニッコリと微笑んでみせる。
こちらに害意がないのに気付いたのか、その男は少し警戒を緩めた。
「ああ、実は俺はここの卒業生なんだ」
「そうだったんですか」
「なんか取り壊されるってきいてな。最後に見ておこうって。中学時代なんて普段は思い出しもしないのに、こうなってみるとなんだか寂しいね」
「へえ」
うなずいてから、僕はそこでいつものセリフを言った。
「いきなり変なことを聞きますが、中学校の時、なにか怖い話ってありました?」
「あ?」
「いえ、実は、僕は怖い話を朗読して動画を作っているんです。何かネタになることがあれば……」
「怖い話? あるよ。ちょうどこの校舎に関わりのある話だ」
どこか遠い目で校舎を見つめながら、その男は語りだした。
最近はどうだったかしらないが、俺らが学生だったころはこの中学校は荒れててね。ロッカーはボコボコ、授業中無意味に非常ベルは押されるし、それはひどかったんだ。
まあ、俺は結構大人しい部類でさ、そんな事はしなかった。かといって真面目じゃなかったけどさ。
けど友人のK史は何かあると窓を割ったり、イスを投げたり結構やんちゃしてたな。非常灯を割ったり、壁に落書きしたり。
でも、なぜかそいつと俺は気があってさ。
夜中に酒とつまみを持っては教室に入り込んで酒盛りをしていたんだ。電気の明かりでバレないように懐中電灯持ち込んで、三階の自分たちの教室で宴会するんだ。
忘れもしねえ冬のことだったよ。その夜も、俺たちは勝手にストーブをつけて、バカ話をしていた。
教室もあったまって、ようやく酔いもまわったと思ったら、、またどんどんと寒くなってきてな。しまいには我慢できないくらいになった。
見てみたら、ストーブの石油がなくなって、火が消えてたんだ。
それでK史がそばにあったポリタンクから石油を足そうとしたんだ。めんどくさいんでポンプなんか使わねえよ、直にだ。
でも、奴も酔っていたんだろうな。タンクの蓋を開けて、傾けたところでストーブの火が燃え移ったんだ。いや、本当にストーブの火だったのかなあ。こんなに簡単に燃え移るものなのかなあ。まあ、とにかく、火がついたんだ。
「うわ」
って驚いて、K史は思わずポリタンクから手を離した。透明な液体が広がって、イヤな臭いがした。そう思った瞬間、床が火の海になりやがったんだ!
もう完全に酔いは覚めちまった。
K史の足に火がついて、奴はひいひい言って変なダンスを踊ってるみたいだった。驚いて叩き消したよ。スニーカーから煙が上がっていたっけ。
その時に、懐中電灯を落としたんだ。暗かったから確認できなかったけど、電池が抜けたのか豆電球が割れたのか、完全にいかれてね。
床の炎はますます燃え広がった。けど、明るくなるどころかどんどん暗くなっていった。とけた床から、火の明かりも見えなくなるくらい黒い煙でわきあがったんだよ。
喉が痛くなって、咳が止まらなかった。やべえ、やべえ、ってなったもんだ。
慌ててK史と廊下は飛び出たら、そこも真っ暗だった。
いつの間にか、窓からの光が届かないほど煙でいっぱいになっていた。
ストーブから火が出て何分も経ってないのに。火は早く回るって言うけど、いくらなんでも早すぎだろって今でも思うよ。
とにかく、ここから逃げなければ。といっても、まっくらで方向も分からない。普通なら、目印の非常灯が見えるはずだ。緑色の光が。
でも、言った通りそんなものはとっくにぶっ壊されてた。しかも皮肉なもんで、壊したのはK史ときたもんだ。
火が見えないのに、だんだん息ができないくらい空気が熱くなってくる。目が痛くて、細くしか開けられない。
火元の教室には戻れない。廊下の窓を開けようとしたが、熱くて触れやしなかった。そでを指先までひっぱって、鍵を外した。でもサッシが熱膨張したのか、貼りついたように窓が動かないんだ。もっとも、開いたところで三階にいたから、飛び降りて逃げることはできなかっただろうがな。
K史もそばにいるようで、うめき声は聞こえる。でも、煙に巻かれているから、姿は見えない。
仕方ないのでとにかく適当に非常口があると思った方へ歩いていった。
足元が見えないって本当におっかないぞ。こう、両手を前に伸ばしてな。ゾンビみたいに前方を探って歩くしかない。
そのうちだんだんと呼吸が苦しくなって、頭がぼーっとしてきて。それが少し気持ちいいんだ。で、その気持ちよさが逆に怖いんだよ。自分が死に近づいている気がしてな。
その時、煙の前に誰かが立っていた。黒い煙のなかで見えるほど、真っ黒い人影だよ。
一瞬、消防士が助けに来てくれたと思った。
「助けてくれ!」
ってそっちの方に歩き出したとき、気づいたんだ。なんかおかしいって。
消防士なら、何か言うもんじゃないか?「大丈夫ですか?」とか「他に人はいますか?」とか。でも、そいつはただそこにじっと立っているだけだった。まあ、ただ突っ立っているだけでも、煙が揺れるたび、そいつ自体が傾いたり、でかくなったり、縮んだりしてたけど。
それに、そいつはなんかこう……凄みのようなものがあったんだ。普通の人間にはないような。うまく言えないけど。
煙の中から、そいつはヌウッと手を伸ばして、俺の右手首を握った。冷たい手だったなぁ。
びっくりして振りほどこうとしたけど、鎖が巻きつけられたように外れないんだ。痛いくらい力いっぱい引っ張られた。
「お、おいちょっと!」
身をよじっても逃げられなかった。
連れてこられた先には、ポツリと一つだけ非常灯が灯っていた。
これで助かる! って思ってその灯りの方へ走っていった。
あとで気づいたんだけど、その時にはもう手は離されていたんだ。たぶん、俺が非常灯に気づいた時点で。
派手にむせながら俺は非常口を開け、外壁につけられた非常階段の踊り場に飛び出した。
振り返ると、開け放たれた非常口から、校舎の中に外の光が差し込んでいた。
「おい! 待ってくれ!」
って聞こえて振り返ると、K史が煙の中でもがいているんだよ。
ぼんやりと見えるK史の姿のうち、右手だけが後ろに引っ張られるように煙の中に沈んでいる。
そして、そのK史の後ろに、俺の手を引いていた人影が、いつの間にか立ってやがったんだ。
K史は、放せ、放せとわめいていた。
俺が助けに行こうとしたら、鼻先で鉄の扉が閉まった。開けようとドアノブをつかんだけど、糊づけされたみたいにまったく開かないんだ。ついさっき、これをつかんで出てきたばっかりだって言うのに。
閉まった扉の前で、バカみたいにしばらく呆然とした後で、ようやく俺は携帯で消防署に連絡を入れるのを思いついたんだ。
結局、俺たちがいた三階部分が焼けただけで、校舎全体が焼け落ちる事はなかった。
でもね、焼け死んでたよ、K史は。
それで、不思議なことがあったんだ。体は全身焦げと煤(スス)と煙で真っ黒だったけど、手首だけ白い輪の形にきれいな皮膚が残っていたらしい。誰かに強く腕を捕まれていたみたいに。
俺は、人影の証言はしなかった。俺の見たことを言ったところで誰も信じてくれなかっただろう。K史の他に、誰の死体も出なかったから、余計にな。
「じゃあ、その黒い人って結局なんだったんでしょう」
そのK史の跡からさっするに、その人影は自分は焼死することなく、K史が死ぬまで彼の腕をつかみ続けていたことになる。
ただの消防士や、迷い込んできた一般人とは思えない。
「さっき、その階だけ焼けたって言ったけど、色々、細々したものは残っててさ」
男は僕の質問には答えず、話し出した。
「例えば、窓際に置かれた花瓶とか、金属製のファイル棚だとか」
彼が何を言いたいのかまだわからず、僕は黙って相手の話をきく。
「その中に、非常灯があったんだ。K史が、その階の非常灯ほとんど割ってたんだけど、一つだけ割り残していたものがあったんだよ」
「そういえば、黒い人影がそこまで連れて行ってくれたんでしたね」
男はうなずいた。
「ああ。非常口真上のものが残っていたんだよ。高いところにあるから、割るのも面倒だったんだろうな」
たしかに、わざわざ踏み台や長い棒を用意してまで割ったりはしないだろう。
「それでほら、思い出してほしいんだけど、あれって出口に、四角い体と丸い頭でできた人が逃げてく絵が描かれているだろう」
僕の頭の中に、出口を表す四角と、そこに向かって走る人の図が浮かんだ。
「ピクトグラムでしたっけ。文字が読めなくても意味が分かるようにデザインされたものですね」
「そういう名前なのか? とにかく、いなくなってたんだよ、その人形(ひとがた)が」
頭の中の図から人間が走り去り、出口を表す四角だけが残される。
同時に、彼が何を言いたいのかもなんとなくわかってきた。
「それって、つまり……」
「みんな、熱で人形(ひとがた)の塗料だけが溶け落ちたんだろうって言ってたけどな。俺は思うんだ。あの人形の生き残りが、火事を利用して化けて出てきたんじゃないかと。そして、K史を殺して、仲間の仇(かたき)を討ったんだよ」
「なるほど。それならK史を殺したのに、あなたを助けたのもわかりますね」
「ああ。俺は非常灯を割っていなかったから助けたんだ」
炎の中で、必死にもがく男。四角い体の、円い頭をした人型が、その腕をつかんで離さない。
なんというか、それはシュールで、滑稽(こっけい)で、どこかバカバカしかった。でも、だからこそつかまれていた本人は悪夢のようだったに違いない。
「俺の話はそれだけだ。ちなみに、そのあと学校の中でも外でも、変な人影を見たって話しは聞かなかったな」
そういって、男は片手をあげるとすたすたとどこかへ行ってしまった。
僕はまた校舎の方へ目をやった。
灰色の壁に並ぶガラス窓の向こうは、暗くて見えない。
彼の話が本当なら、その人形はまだあの校舎にいるのだろうか?
近々この校舎は解体される。だとしたら、その人形はどうなるんだろう?
校舎と一緒につぶされるのか? それとも、もうとっくに学校を出て、他の非常灯の中に逃げ込んでいたりして。
二人の人物が重なるように非常口から逃げようとしている図案を思いついて、僕はフフッと笑みをもらした。
『ねえ、知ってる? あそこの非常灯の絵、逃げている人が二人いるらしいよ』
いつか、そんな話が聞けたら面白い。
そんなことを考えながら、僕はその中学校前をあとにした。
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