第8話 運命の糸の使い方
泣き疲れた彼女は、青年にうながされてベンチに座った。
「ねえ、」
と、青年がアサに話しかけた。その声は優しくて、また涙があふれた。アサは首を振る。
「慰めとか要らない」
「違うよ、僕のことを話していいかな」
青年の声が、アサの耳から入ってそっと胸の中に落ちていった。アサは、頷いた。
「一週間前に、僕は恋人だった女の子と別れた。僕は、それまでにも何度も恋人を作っては別れを繰り返してきた。でも今度こそ、その子こそが、運命の相手だと思っていたのに、また違ったんだ」
アサは泣くのをやめて、顔を上げた。青年は、眼下に広がる町に向かって静かに喋っていた。
「この世界のどこかに、運命の恋人が必ずいると信じていた僕は、どうしてもその人に会いたいと強く願ったんだ。こんなふうに運命の人じゃない誰かと、くっついたり別れたりして人生を無駄にしていくのは、もうたくさんだった。一刻も早く、自分の運命の人に会いたかった。強く強く願っていたある日、ふと、自分の左の小指に赤い糸が巻き付いていて、どこかに向かって伸びていることに気がついたんだ」
青年が、驚いているアサに向かって笑った。
「僕の話をしているんだよ?」
「でも、」
青年はアサの言いかけたセリフを遮って、話し続ける。
「これで運命の恋人に会えるんだ、と喜んだ僕は、失恋の痛みも忘れて、夢中になって赤い糸を手繰っていった。糸は、からかうようにいろいろなところに僕を連れまわした。普段なら行かないような場所にも行ったし、珍しい人にも会えた。でも、いつまでたっても、運命の人には出会える気配がなかった。何度も途中で諦めようかと思ったし、信じるのをやめようかとも思った。でも、ここで諦めたら一生運命の人を知ることはないかもしれない、そう思って糸の後について探し続けた」
自分のときと全く一緒だった。アサには、青年の気持が自分のことのようにありありと想像できた。
「やがて、僕は糸が終わりに近づきつつあることを悟った。ようやく運命の人に会える、と、僕は確信した。糸は、僕のアパートの、僕の部屋に続いているようだった。変だと思った。でも、運命の人が部屋の前で待っているんだ、と、自分に言い聞かせた。階段を駆け上った。部屋の前には、誰もいなかった。糸は部屋の中を指していたが、当然部屋には鍵が掛かっていた。もしかしたら、僕は開けっ放しで出かけてしまったから、勝手に中に入ってて、それから内側から鍵をかけてしまったのかもしれない。外から見て電気が消えていたのは、僕のことを待ちくたびれて寝てしまったのからだ。僕は、ノックをして、それから鍵を開けた。中に入って電気を点けた」
青年がアサを見て、淋しそうに微笑んだ。
「誰もいなかった。部屋は、朝、出たときのまま、何一つ変わっていなかった。そして糸はそこで終わっていた」
アサの両目から、再びぼろぼろと涙があふれた。誰もいない自分の部屋で、糸の終わりを見た彼のそのときの気持がアサの中に押し寄せてきて、涙が止まらなかった。
「僕には運命の人がいない、そのとき、確信したんだ。実を言うと、今も僕には見えているんだ、どこにも繋がっていない運命の赤い糸の切れっ端がね」
青年の右手の指が、空中で何かをつまむ。アサには青年の糸を見ることはできなかった。でも、彼が嘘をついているのではないことは分かった。
「でも、今さっき、君のおかげで、『あること』が分かった」
青年の手が、アサの右手を包んだ。糸がふわりと発光する。アサはびくりと身震いした。糸に何かが触れたのだった。そして、次の瞬間、アサの糸と触れた部分からすうっと光が伸びていった。青年の小指に絡み付いている糸が、アサにも見えた。
「運命の糸は、こうやって使うんだ」
青年は、手早くアサの糸の端をつまむと、器用な手つきで糸をくるくると操って、自分の糸の端と結び合わせて引っ張った。結び目が生まれて、それから、その結び目が溶けるように消えた。アサの小指から伸びた糸は、青年の糸と繋がり、一本の糸となった。
アサは、青年と糸を何度も見比べて、感激のあまり言葉を失っていた。青年は、そんなアサを微笑みながら眺めていたが、いつまでもアサが黙っているので、青年は、照れくさそうに、
「何か言ってよ」
と、アサに言った。アサは、青年を指差して、珍しい動物でも発見したかのように、
「運命の人だ」
と、言った。
「そうだよ」
と、青年は、頷いて見せる。
「で、僕の運命の人は君だ」
と、彼はアサに向かって言ったが、アサはもう彼の話を聞いてはいなかった。アサは右手で青年の左手を取り、目の高さまで持ってくると、自分の左手も隣に掲げて、二つの小指の間を繋ぐ糸を見てにやにやと笑っているのだった。
「運命の赤い糸だ」
と、アサは言った。
「そうだよ」
青年が、肯定した途端、アサは悲鳴に近い奇声を発して興奮しながら、はしゃぎ始めた。
「あのさ、運命の人に出会えた主人公のラストシーンは、熱くて甘いラブシーンになるんじゃないかな」
青年は試しに提案してみたが、アサの耳には聞こえていないようだった。
「嬉しい」
息を切らしながら、アサは青年に向かって言った。
「それは見たら分かる」
青年は、笑いながらため息をついた。
二人は手を繋いだまま、石段を降り、あぜ道を歩いていった。蛙たちは、相変わらず鳴き誇っていた。リリリと草むらに住む虫の声も、蛙の合唱に加わった。辺りは暮れかけていた。そういえばお腹が空いていた。さっきはあんなに遠く感じた道のりだったのに、あっという間に駅が見えた。
「そうだ、君。名前は?」
と、青年が尋ねた。
「アサ」
と、彼女は答えた。
「朝昼晩の朝じゃなくて、植物の麻」
青年は、納得したようににやりと笑った。
「いいね。君にぴったりだ。花言葉は、『運命』、だろ?」
アサは、ふいをつかれて動揺し、耳まで真っ赤になった。青年が花言葉を知っているなんて予想もしていなかったのだ。
「何でそんなこと知ってるの?」
「だって、僕は、『運命』マニアだからね」
青年は楽しそうに笑う。
「じゃあ、あなたの名前は?」
と、アサは尋ね返した。
「僕のは、普通だからいいよ」
と、青年は言って笑った。
「いいよってわけにはいかないでしょう?」
「本当に、今度こそ電車がなくなるから急ぐよ」
青年は、アサの手を握って駆け出した。アサは、走りながら、ちらりと自分の小指を見た。赤い糸はもう見えなくなっていた。
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