第7話 階段を登ったその先に
「もうすぐ着くよ」
青年の声で起こされた。いつの間にか、アサは眠っていた。窓の外には、鬱蒼とした山の木々があった。どれだけ走ったのだろう。一体今は何時なのだろう、と、アサは寝起きの頭でぼんやりと考えた。青年と一緒にいて緊張しているせいか、運命の人に向かっているという興奮のせいか、お腹は全然空いていなかった。
「出よう。次の駅が目的の駅だ」
と、青年が言った。アサが立ち上がると、青年がドアを開けた。電車が徐々にスピードを落とし、停止した。ブザー音とともにドアが開く。糸は、出かける準備は整ったとばかりにするするとドアの外へ延びていった。二人は並んで駅に降り立った。
無人駅だった。線路の向こうは山だった。反対側は、田んぼや畑が広がっている。錆びた金網が、駅と外の道とをかろうじて区切っていた。電車の一番後ろのドアが開いて、改札のために車掌が出てきた。この駅で降りたのは、アサと青年の二人きりだった。
青年は、車掌に会釈をして通り過ぎようとしたが、車掌は、にやりと笑って、アサを指差した。
「新しい彼女だろ? ただで乗せてやったんだから、今度紹介しろよ」
青年が反論する間もなく、車掌は電車に乗り込んで、運転士に向かって出発の合図を出した。ブザーが鳴って、ドアが閉まる。車掌が、アサに向かって小さく手を振った。電車は、アサと青年を取り残して、大きな音とともに走り去っていった。
「違いますよ」
否定し損ねた青年は、仕方なくアサに向かって言ってみた。
「ねえ」
と、アサも同意した。だけど、本当は、悪い気はしなかった、と思ったことは言わなかった。
(運命の人に出会う前に浮気心を起こしてどうする)
アサは、気を取り直して、大股で歩き始める。駅は、端から端まで十歩で行けるような広さしかなかった。外に出ると申し訳程度の小さな踏切がついていて、車一台分ほどの幅の道を区切っていた。駅の周り一面に、水田が広がっていた。稲穂が頭を垂れ始めていた。
(こんなところに運命の人がいるんだろうか)
アサは不安になった。赤い糸が指し示す先には、田んぼと鬱蒼と茂った山しかない。青年の姿を目で探す。彼は向かい側のホームにいて電車の時刻表を覗きこんでいた。そして、ホームを降りると踏み切りを渡って、アサのところに戻ってきた。
「さあ、行こうか。君の赤い糸はどこに行けって?」
アサは、糸の示す方向を指差した。青年は、アサの指差した方角に向かって颯爽と歩き始める。その様子を見て、アサも気が軽くなる。糸が示しているのだから、とにかく行ってみないと何も始まらないのだ。
青年と並んで歩きながら、アサは、電車の中で起きていた間に考えていたことを言ってみた。
「もし、わたしの運命の人が本当に見つかったら、あなたも運命の人の存在を信じる?」
「そうだね、信じるよ」
と、青年は言った。
「君には運命の人がいたってことをね。だけど、僕にはいないっていう事実は変化しない」
「ひねくれてる」
「君が素直すぎるんだよ」
青年は、そう言って笑った。
「さあ、早く行かないと、また逃げられちゃうよ」
アサは何か反論したかったが、青年の言うことはもっともだった。ここまで来たのだから、もう逃げられるわけにはいかない。足を早めて、赤い糸の指すとおり、水田と水田の間の道を歩いていく。
一台の軽トラックが走ってきたので、二人は道の端に立ち止まってやり過ごす。トラックが去っていくと、辺りはいっそう静かになった。人の気配がまったく感じられなかった。
「運命の相手は人じゃなくて狸かもよ?」
青年が軽口を叩いたので、にらみみつける。赤い糸は、さらに駅から離れた山の方角を指し示している。
(こんな淋しい場所にいるなんて本当に狸かもしれない)
アサはますます不安になってくる。だが、不安が心をよぎり、気持が弱くなった途端、赤い糸の光が小さくなっていく。
(いけない。ちゃんと信じなくちゃ)
アサは、手のひらで自分の頭を叩きながら、集中する。そんなに自分で自分を叩いたら痛いよ、と隣で青年がのんきな声を出したが、アサの耳には入らなかった。
水田が終わると、階段が現れた。石でできた階段が山の上に向かって続いている。階段の頂上に何があるのかは、木々が邪魔をして見ることができない。アサは、石段を登り始めた。石段は、ところどころ壊れて土が剥き出しになっていた。階段の両脇から、潅木が突き出して、進路を妨害して歩きにくい。
枝を掻き分けて登りながら、アサは、はっきりと糸の終わりが近いことを感じた。確実に目的地に近づいている。
(運命の人は、あの上にいるんだ)
そう考えると、自分を抑えられなくなった。夢中になって登り続ける。
「ねえ、もう帰ろう」
突然、階段の下から青年が叫んだ。彼は、少し離れてアサの後を登っていた。
「待って、もう少しなの。感じるのよ。この上に登ったら運命の人に出会える。絶対そう」
アサは、振り返って青年に向かって叫んだ。アサは動揺した。今まで、一緒に糸の行方を追ってくれていた彼が、どうしてここにきて突然帰ろうと言い出したのか、分からなかった。気まぐれでついてきたけれど、こんな茶番に付き合うのはもうたくさんだと思ったのだろうか。
「本当なのよ。わたしには赤い糸が見えているの。信じてよ」
青年は、石段を飛ばしながら駆け上がり、がさがさと階段の横の潅木を揺らしながら、あっという間にアサの隣に辿り着いた。
「それは分かる。君に赤い糸が見えていることは疑っていない」
「じゃあ、どうして? もう少しなの。あの上だから。きっと。あそこが終点なのよ」
アサが、必死に言えば言うほど、青年は静かに首を振るのだった。
「あんなところに人はいないよ。もう帰ろう。また明日探せばいい」
アサは、むきになって青年に反論する。
「赤い糸が上に登れって言ってるのよ。せっかくここまで来たのに、帰るわけにはいかない。運命の人を一目見てからじゃないと、わたしは帰らない」
背を向けて階段を登ろうとした途端、青年が、アサの腕を掴んだ。振り返ったアサが見た青年の顔は、怖いくらいに真剣だった。
「あんなところには、誰もいないよ」
と、青年は言った。
「どうして止めるの?」
アサは、今にも泣きだしそうだった。
「いるから。運命の人は絶対にいる」
青年の手を振り払って、アサは駆け出した。糸の指し示す先は、鬱蒼とした木々に囲まれていた。青年の言うとおり、誰もいないんじゃないかとアサは不安になる。口の中がからからに渇いた。動悸が激しくなる。
(信じるのをやめて、運命の人と出会えなくてもいいの?)
アサは自分を励まし、足を運び続ける。青年が後ろからついてきていたが、アサは振り返らなかった。階段の先は、外灯でぼんやりと照らされている。ベンチの背のようなものも見える。きっと、誰かいるに違いない。アサは強く信じながら階段を一段ずつ登って行く。
(もう少しだ。もう少し頑張れば、会えるんだ)
祈るようにして、最後の一段を踏み越えた。
数メートル四方の広場に出た。頭の上を覆っていた木々がなくなって、視界が開けていた。そこから、街が一望できた。
赤い糸は、広場の真ん中に浮かんでいた。アサは、ゆっくりと辺りを見回した。隅には、コイン稼動式の錆びた双眼鏡が設置していた。地面は、石のタイルで舗装されていたが、タイルの隙間からは草が勢いよく伸びていた。見回すほどの広さもなかったが、時間をかけて慎重に眺めていく。体が小刻みに震えるのを押さえて、景色を視線で塗りつぶすかのように目に神経を集中させる。
(誰もいない)
と、アサは糸に向かって呟いた。
(もしかしたらこの高台から、運命の人が住んでいる場所を指し示そうっていうのかもしれない。ここからなら、わたしの町も、隣の町も、もっと遠くまで見えるもの)
彼女は、糸が指し示している方向を見定めるために、糸の下にもぐりこんで糸を見上げた。糸は、空に浮かんで、きらきらと輝いていた。アサが今まで目にした中で、最もくっきりと存在していた。アサは、輝く糸に見惚れたが、次の瞬間、あることに気がついた。
(糸はもう、どこにも続いていない)
頭の上に浮いていた糸の端が降りてきて、アサの手のひらの上に着地した。アサは糸をじっと見つめる。左の小指に巻き付いている赤い糸は、数回交差して手のひらの上にぐったりと横たわっていた。そして、彼女の右の人差し指を越えたところで、糸は、ふつりと途絶えていた。
アサは、糸を親指と人差し指でそっとつまんだ。糸の先端は、斜めに千切れているわけでも、鋭利な刃物で切られているわけでもなかった。最初から、そこで終わりだったような自然な丸みで閉じていた。
木々の擦れる音がして、アサは振り返る。紺色の制服を着た青年が立っていた。アサは、糸をいっそう強く指で挟んだ。何かを言おうとしたが、自分の意志とは関係なく、両目からぼろぼろと涙がこぼれて止まらなくなった。青年が、そっと近づいて、アサをなだめるように、背中をさすった。
「明日また探そうよ。きっと見つかるから」
と、青年は言った。
アサは、首を振る。
「そうじゃない。明日探しても、もう見つからない」
糸の端は自分の手の上にあって、誰にも繋がっていなかった。これ以上探しても、もう二度と見つかることはないんだ。そんなことなら、糸なんか見えない方がよかったのに。
青年が、心配そうに覗き込んでいた。また涙が溢れた。
「どうして」
と、だけ彼女は言えた。糸をつまんだ手が激しく震えていた。今まで何度も失恋をしたけれど、そのたびに運命の人がいるはずだと信じて立ち直ってきたのに。今度こそ終わりだった。アサは絶望して泣き続けた。
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