第6話 僕には運命の人が存在しない
今日はもう帰ろう、と地面に横たわっている赤い糸を見つめながら、アサは考えた。興奮して騒いだ自分の姿が、追い払っても追い払っても頭の中で再生される。消えたいくらい、恥ずかしかった。これ以上、青年に迷惑をかけるわけにもいかなかった。
「すみません、帰ります。ご迷惑おかけしました」
アサは、頭を下げた。下を向くと涙がこぼれそうだった。
「でも、糸は、まだどこかに続いているんだろう?」
青年は、立ち去ろうとするアサを引き止めて言った。糸は、地面に向かってうなだれていたが、地面に落ちた先は、どこかを指し示していた。どこなのかは、分からないが、続いていることは分かった。アサは頷いたが、気持が落ち込んでしまっているせいで、糸の行き先がはっきり見えなかった。再び強く運命の人を信じる気分ではなくなっていた。
「よし、じゃあ一緒に探しに行こう」
青年がアサの肩をぽんと叩いて言った。
「一緒に?」
「そう一緒に。今日は早朝勤務だったから、僕の仕事はこれで終わりなんだ」
アサは、青年の顔を呆然と見つめていたが、やがて、吹き出した。
「一緒に探すのって、何か変」
「変かな」
青年は意外そうに首を傾げた。
「変だよ」
「大丈夫、運命の人が見えたら隠れて立ち去る。邪魔はしないよ。僕は、運命の人が存在するってことを、この目で見てみたいんだ。それに電車で行くのなら、僕と一緒だと便利だと思うよ」
青年は、胸ポケットから電車会社の印の入った手帳を取り出した。開くと見開きいっぱいに赤や青や緑の線が走っていた。路線図だった。アサが青年の申し出を断ろうとしたそのとき、糸が地面から離れて舞い上がったので、驚いて口をつぐんだ。糸は青年の手帳に降り立って、小さな赤い丸で駅の一つを囲んだ。アサは、糸が囲んだ駅を指差して、青年に、
「ここ」
と、告げてみた。
「了解」
青年は、にやりと笑うと、ぱたんと手帳を閉じて胸ポケットにしまう。
「さあ、行こうか」
青年が颯爽と歩き始めた。アサも紺色の制服の後に続いて歩いていく。彼と一緒なら、赤い糸を辿って運命の人に会えることができるような気がして元気が出てきた。運命の人が見えたら立ち去るから、という青年のセリフが過って、複雑な気持がした。でも、本当に運命の人に出会えたら、寂しいなんてきっと思わないに違いない。
二人並んでホームを降りる。通路の突き当たりまで歩いていく。糸は、すっかりお任せとばかりに、青年の頭の上をふらふら漂っているばかりだ。エスカレーターを上がって、ホームに出る。ホームには一台の電車が止まっていた。青年はアサに、ちょっと待っているようにと指示して、車掌らしき男のところに歩いていき、そのまま話し始める。何を話しているのだろう。ちらちらとこちらを見るので、アサは何だか緊張して俯いた。青年は戻ってきて、
「よし、乗ろう」
と、言った。アサは、自分の手に握られた切符を見せる。一駅行けるかどうかも分からないような金額だった。
「大丈夫、切符の心配はいらないから。もう交渉済みだ」
そして、青年は、僕がついてきてよかっただろう? というように、アサに向かって微笑んで見せた。
(交渉?)
嫌な予感がして、アサは、青年の後について乗り込みながら、
「なんて交渉したの?」
と、尋ねた。まさか赤い糸の運命の人を探しに行くんですなんて言ったわけじゃないだろう。
「無賃乗車の家出少女を、家まで送ってきますって」
アサは驚いて顔を真っ赤にしたが、興奮すればするほど言葉が出てこなかった。
「そうやって、顔を真っ赤にして怒っていると、ますますそれらしく見えるよ」
と、言って、青年は車掌から見えないように下を向いて、忍び笑いを漏らした。
座席の八割は埋まっているようだった。がたごとと揺れる振動によろけながら、アサは青年の後をついて歩いてく。青年は、まるで揺れていない平地を歩いているように、バランスを崩すことも揺れることもなく、軽やかに進んでいく。眠そうな乗客たちは、顔を上げて、制服と連れ立って歩いているアサをうさんくさそうに眺めている。
「やっぱり目立つね」
と、青年は呟いた。
そのとき、車両の奥から車掌が歩いてきた。家出少女、という言葉を思い出して、アサは再び顔を真っ赤にして俯いた。青年はそんなアサの様子には構わず、車掌と仲がよさそうに話している。車掌が、後ろの車両を指差しながら何かを説明し、青年は礼を言って、車掌の指差した場所に向かって歩き始めた。アサは足早に青年の後についていく。二人は、客室と客室の間のデッキに出た。そして、青年はズボンのポケットから鍵の束を取り出すと、その中の一つを使って、関係者以外立ち入り禁止というプレートが掛かっているドアを開けた。
「さあ、どうぞ」
「今度は何て交渉したの?」
と、アサは半ば諦めながら聞いてみた。
「取調べをするから開いている部屋はないかって」
青年の答えは、アサの思ったとおりだった。
そこは乗務員の休憩室のようだった。バスルームほどの空間に、向かい合った座席と、小さなテーブルと、古い簡易ベッドのようなものが置いてあった。窓は、ブラインドで閉ざされていた。中に入ると、アサは座席に座って、窓のブラインドを開けてみた。眩しい光に目を射られた。窓の外の景色は、街とは一変していた。家がまばらになっていて、青々とした草原が続いていた。
青年も中に入ってきてドアを閉めた。途端に、外の喧騒が消え、ガタンゴトンという規則正しい電車の音だけになった。心臓が、ぎゅうと縮まる思いがして、アサは青年の方を振り向けなかった。
何を話せばいいのか分からなかった。向かい合って座っているのが気まずくて、アサは窓の外ばかり見ていた。電車が大きなカーブに入って、二人の体がゆっくりと窓に押しつけられた。トンネルに入る。電車の振動音が一回り大きくなり主導権を握る。アサは、黙って電車の音に耳を傾け、振動に体を任せた。青年も、窓枠に肘をついて外を眺めていた。指の長い大きな手が青年のほっそりとした顎を支えている。アサは、青年の左手の小指を、じっと眺め続けた。
運命の人を信じていないと言ったくせに、どうして一緒に探してくれるのだろう。そういえば、今まで、運命の人を信じているかという質問に、はっきりとノーと答えた人は初めてだった、とアサは思った。笑われたことは何度もあったけれど、きっぱりと信じていないとは誰一人言わなかった。いると言い切れないように、いないと言い切るのだって難しいからだ。
「本当に運命の人はいないって思ってる?」
アサはもう一度尋ねてみた。青年は、頷いたが、アサの表情が翳ったのを見て、明るい口調で付け加えた。
「でも、運命の人がいないというのは、僕に関しての話だ。世の中全ての人間に対して、運命に定められた相手なんかいないって言っているわけじゃないよ」
青年は、アサに向かって、にっこりと笑って見せた。
「僕には運命の人が存在しないというだけで、君にはいるかもしれない」
アサの胸は締めつけられた。僕には運命の人が存在しない、というセリフは、運命の人なんかいない、というセリフとは全く異質の言葉だった。電車がトンネルを抜けて、光が差し込んできた。アサは青年を見た。青年の笑顔は少し色づいた午後の陽光に照らされて、優しく翳っていた。アサは、その笑顔を見てますます淋しくなる。
「どうして、そんなにはっきりと、いないって言えるの? 何の根拠があって?」
思わず大きな声が出た。
「根拠はあるよ」
落ち着いた確信に満ちた声で、青年は言った。一体どういう根拠なのか、アサはさらに聞いてみたかった。しかし、青年が再び黙って窓の外を眺め始めたので、アサも外を眺めて、口をつぐんだ。
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