第5話 電車の中の忘れ物

 雨がやんだ。アサはホームに立ってみた。糸は線路の先を指し示している。線路は単線で、雨に濡れて黒々と光っていた。そのとき、糸が微かに震えたような気がしたアサは、耳を澄ました。電車の音が聞こえる。乳白色の霧に包まれた景色が揺れて、電車が遠くから現れた。終着駅に辿り着いて、戻ってきたのだろう。でも、運命の人を追いかけるには、その電車は反対方向だった。


 アサは、邪魔にならないように離れて、ホームの壁にもたれた。電車がスローモーションで近づいてくる。ゆっくりと巨大化していく電車は、まるでアサの胸の中に向かってくるようだった。

 ふと、小指の赤い糸を見ると、糸が細かく波打っていた。指に巻きついている部分が、指から腕の中に吸い込まれてアサの心臓に戻っていく。宙に浮いた糸は、小指に巻き取られているのだ。


(運命の人が、近づいてるっていうの?)


 電車はもう間近に迫ってきてブレーキをかけている。電車が次第に速度を落としていく。小指の糸はぐんぐん短くなる。


(あの中にいるんだ)


 アサは確信した。

 時間がこれほど長く感じられたことはなかった。金属の摩擦音が緩慢な様子でレールから染み出してくる。細長い胴体は、いつまでたってもだらだらと前進し続けている。ようやく、断末魔のようなキイという短い音をたてて、電車が完全に止まった。扉が開く。扉からまばらに人が出てくる。


(この中の誰かだ)


 アサは、目を見開いて、糸の先と人々の顔を食い入るように観察する。新聞を小脇に抱え、くたびれたポロシャツを着た中年の男、買い物の袋を下げた若い女、だぶだぶのズボンを履いた若い男、野球帽の少年たち。アサは、見逃さないように糸と乗客を交互に睨みつけていたが、糸は誰のことも指し示さなかった。やがて、人の流れが途絶えた。いくら待っていても、もう誰も車両から出てこなかった。

 ホームのスピーカーがジジジと音をたてて、アナウンスが鳴った。


「この電車は回送電車となります、お乗りにならないでください」


 しかし、糸はまだ、電車の中を指していた。


(もしかしたら、中で居眠りしているのかもしれない)


 一番先頭の車両から運転士が出てきて、ホームに下りて伸びをした。その運転士が後ろを向いている隙に、アサは電車の中に乗り込んだ。

 飛び込んだのは一番後ろの車両だった。車両の中は静かで、乗客はもちろん、ゴミ一つ落ちていなかった。

 一歩一歩確かめるように歩いていく。手で引き戸を開けて、次の車両に移る。誰もいないので、だんだん大胆になり、大股で進んでいく。そのとき、前の車両の引き戸が開いて、紺色の制服に身を包んだ駅員が現れた。姿を隠そうと思ったが、一列に連なったこの空っぽの車両では、逃げる場所も隠れる場所もなかった。

 アサは咄嗟に、


「ちょっと忘れ物をしたんです」


と、言い訳をした。


 駅員が左手で帽子のつばを上に傾けた。優しそうな青年の顔が覗く。アサは、帽子に添えられた左手を見て、叫びだしそうになったのを慌てて押さえた。赤い糸は、彼の左手に繋がっていた。

 運命の人だ、とアサは心の中で何度も呟く。目頭が熱くなったが、こんなところで泣き出すわけにはいかなかったので、俯いて涙を我慢した。耳が赤く染まっていくのが自分でも分かった。


「何を忘れたんですか?」


 青年の言葉で、アサは我に返った。何を忘れたのか考えていなかった。頭が真っ白になった。


「何を忘れたのか忘れました」


 青年が笑いだした。アサは、恥ずかしさで頬を高潮させて俯きながら、その一方で青年の笑い声が素敵だなと思いながら立っていた。


「忘れ物ねえ、何もなかったと思うけれど」


 と、青年は言いながら、もう一度確かめるように網棚や座席の隅を点検し始める。何か見つかればいいのに。ボールペンでもボタン一つでもいい、見つかったら、そうそれを探していたんですと受け取ろうとアサは考えた。そのとき、手を止めて、青年が振り返った。


「ねえ、君。昨日、美術館にいたよね」


 アサは驚いて青年の顔をじっと見る。覚えがなかった。


「美術館にはよく行くの?」


 探し物を再び続けながら青年は、アサに尋ねた。


「ええ、週に一回くらいは」


 と、アサは嘘をついた。途端に、また弾けるように青年が笑いだした。


「週に一回、裏口から?」


 見られていた。アサは、再び顔を真っ赤に染める。


「さて、何を忘れたのか忘れた忘れ物を、どうやって探そうか?」


 駅員の青年は笑い顔のまま言った。


(ああ、どうしよう。せっかく運命の人に出会えたのに)


 何て切り出せばいいのか、気持ばかりが焦っていく。


「忘れ物というか、探し物なんです」


 と、アサは必死になって喋る。青年は首を傾げる。


「わたし、探しているんです」


「探してるって、何を?」


「運命の人です」


 笑われる、と思ったが、青年は笑わなかった。アサは、そのまま、一気にまくしたてた。


「運命の人の存在を信じますか?」


「信じないよ、僕はね」


 しかし、アサは笑われることにも信じないと言われることにも慣れていたので、青年の答えにも落ち込まなかった。


「わたしは信じているの。ずっとずっと探し続けているのに、今までめぐりあうことができなくて、悩んでいて、ある日、運命の人をどうしても見つけたいって強く願ったら、小指から赤い糸が伸びているのが見えるようになったの」


 アサは、青年の前に左手をかざして見えた。彼はアサの小指をじっと注視した。でも、青年には糸は見えていないようだった。


「そして、赤い糸をたどってここまで来た」


 アサの次の言葉を青年が待っている。途端にアサは心臓の鼓動が速くなり、息が荒くなった。次の言葉が出てこないのだった。この糸が、あなたの左手に繋がっているというセリフが。自分の左手が見つめられているのに気がついて、青年は、アサの前で手を広げて見せた。

 彼の左手を見たアサが突然叫んだ。


「糸が小指じゃない」


 え、と青年が聞き返すのにも構わず、夢中で青年の左手を掴んで指を確かめた。赤い糸は、青年の小指に繋がっているのではなかった。アサは、彼の手のひらを裏返したり目の前に立てたりした。糸は彼の中指を一周し、腕時計に引っ掛かっていた。そして、その先は、青年を通り越し、どこかへ伸びているのだった。

 アサの視線が、自分の左手の指から手首に移り、それから地面に移動したのを見て、青年は大体の事情を悟った。


「そう、それは僕も残念だな」


 独り言ともつかない小さな声で呟いて、青年は広げていた手を下ろした。その拍子に、赤い糸は彼の指からするりと離れた。糸がひらひらと舞いながら、地面に落下していく。アサは糸が着地する様子を黙って見つめる。青年も、アサの見つめる場所を一緒に見つめる。二人の視線に見守られながら、糸は静かに地面に降り立った。

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