第4話 0番ホーム

 夢も見ずにぐっすり眠っていたアサを起こしたのは、またしても電話のベルだった。もうそんな時間か、と思って時計を見たアサは、顔をしかめた。午前五時。早朝といえば言えなくもないが、アサにとっては、むしろ真夜中に分類される時間だった。こんな迷惑な時間に電話を掛けてくる相手の心当たりは、一人しかいなかった。母親だ。

 国境を越えてあちこち居場所を変える母親が、今どこに住んでいるのかアサは知らない。母親は、毎回毎回、こっちの現地時間というものを考慮せずに電話を掛けてくる。


「再婚したのよ」


 受話器を耳にあてると、母親は言った。離婚したことを聞いていなかったが、もう慣れていたのでアサは驚かなかった。


「二十回目の再婚ね」


 と、母親に宣告する。


「あら、もうそんなになるかしら」


 母親は何だか嬉しそうに答える。


「今どこにいるの?」


 アサは一応尋ねてみた。母親は、地球の裏側にあたる地名を告げた。


「まあ、機会があったら彼にも会って頂戴」


「機会があったらね」


 アサはそう答えたが、たとえ会う機会は訪れたとしても、会う頃には、今の相手とは別の相手になっているだろう、と考えた。そういえば、彼女は、母親の前の再婚相手も、その前の相手の顔も見ていない。


「じゃあ、アサちゃんも元気でね」


 アサは何かを言おうとしたが、返事を返すより先に、通話は切れていた。

 一体何しに電話を掛けてきたのだろう。アサは、受話器を見つめた。二十回目にもなる再婚を、遠く離れた場所に住んでいる娘にわざわざ報告する必要があるのだろうか。


(二十でも三十でも百でも、違いはないのに)


 アサは一人呟いてみたが、百回となればちょっとした記念のパーティーを開いてもいいかもしれないと思い直した。そして、ふと、気がついた。


(娘をカウンター代わりに使っているんだ)


 この世界で彼女の母親の再婚回数を正確に把握しているのは、役所と、娘である彼女だけだった。役所にだって、何回かは届出を忘れているかもしれない。母親が再婚するたびに律儀に連絡をしてくる理由が、ようやく分かった。


 アサの母親が初めて結婚したのは、十六歳のときだったが、二十歳でアサを生むまでに既に、三回の再婚(と、もちろん離婚も)の経験をしていた。そして、アサと一緒に暮らしている間に十回、アサが大学に通うために一人暮らしを始めると、自由になった母は、いっそう離婚と再婚のサイクルが速め、ここ数年の間についに二十回という回数に達していた。

 数年ごとに『新しいパパ』と過ごすのが、アサの幼少時代だった。一緒に遊んでくれた男もいれば、アサの存在を無視していた男もいた。しかし、アサが気に入ろうが気に入るまいが、やがて「パパ」は別の人に取って代わられた。物心がつき、他の家の子たちのパパはずっと同じ人のままで続いていくのだと知ったアサは、


「どうしてうちはパパが変わるの?」


と、母親に尋ねてみた。母親は、きっぱりと、


「運命の人じゃなかったからよ」


と、答えたのだった。


 運命の人。この魔法のような不思議な響きの言葉は、幼いアサを興奮させた。運命の人じゃなかったのよ、という理由は絶対的なものに思えた。せっかく仲良くなったパパにもう会えないと知って不満に思ったときも、小学校の友達に、離婚と再婚を繰り返す母親をからかわれても、構わなかった。運命の人じゃなかったから仕方がないもの、と、アサは納得していた。


 思春期を迎えたアサは、昔のように母親を全部受け入れることはできなくなった。ころころと恋人を変える母親を心の底では軽蔑し、母親のようにはなるまいと固く決意した。でも、運命の人という言葉は、彼女の体の奥底に染み付いていた。アサは、母親のようになるまいとは決意したが、それは運命の人を追い求めないということではなく、運命の人とめぐりあうまでは結婚しない、ということだった。

 しかし、最近になって彼女は、自分と母親との違いが結婚をするかしないかということだけだ、という事実に気がついた。運命の人じゃなかったと言って恋人をとっかえひっかえする自分は、母親にそっくりだった。



 受話器を握りしめたまま、また寝ていたようだった。カーテンを開けると、窓の外は既に明るかった。窓の下の道路では、車のクラクションが鳴っている。

 暇を持て余した鳩が、アサの部屋の窓枠に止まって、クックルーと鳴いた。

アサは自分の左手の小指を確かめた。そして、ほっとため息をついた。小指には、ちゃんと赤い糸が巻き付いていた。糸の先は床から浮き上がってまっすぐに延び、昨日の朝と同じように、部屋のドアから外へ出ているのだった。アサはそれを見て勇気づけられた。

 顔を洗って髪を整え、化粧をする。クローゼットを開けて、ハンガーに掛かっている服を触りながらしばらく考えていたが、ジーンズとシンプルなカットソーを選び出した。なんとなく、普段着の方がいいような気がしたのだ。靴も、底のクッションが柔らかくて歩きやすい革靴を選んだ。

 糸を見ると、早く行こうよとばかりに、ドアの外を指し示している。今日こそ運命の人に出会えるのだろうか。

 外に出ると、頬にあたる風は昨日より涼しかった。少しずつ、秋の気配が深まっていく、と思いながら、アサは階段を降りていった。


 公園では、子供たちが歓声を上げてボール遊びをしていた。アサは、公園の横を通り過ぎ、大きなスーパーマーケットの前に出た。買い物袋を下げた人々が、よちよちと歩いていた。さらに進んでいくと、大きな道路に出た。今日もあちこち連れ回されるのだろうと、アサが思ったそのとき、突然、糸が勢いよく延び始めた。


(ちょっと待ってよ、どうしたの)


 糸が自分を急がせるには理由があるに違いない。早足で人混みを縫って歩いていく。糸は、先へ先へと彼女を導いていく。ついに、アサは、走り出した。

 道路を渡って、駅の中を進んでいく。入り口からは、大量の人間が、あちこちから吐き出されてくる。上からも地下からも、大きく広げられた入口はどこも人間の吐き出し口だった。アサは、人に押し戻されて糸を見失いそうになったが、腕に力をこめて人を掻き分け進んでいく。頭上には電車のホームがあるらしく、低い地響きが伝わってくる。

 ガシャリ、と音がして行く手が遮られ、膝に強い痛みが走った。そこは自動改札口だった。駅員が駆け寄ってくる。アサは、急いで回れ右をすると迷惑そうな顔をして待っている後続の人々を押し分け、俯いて、切符売り場へ向かう。


(電車に乗るなら乗るって言ってよ)


 ぶつぶつと糸に訴えながら、どの切符を買えばいいのだろう、と券売機の前で、考え込む。またしても、後ろに行列ができていた。慌てて、一番安い切符を買う。足りなければ後で払えばいい。

 改札を抜けて、人の流れの中を歩いていく。糸は、どこを目指しているのだろうか。


(電車に乗ってどこかへ行けってことだろうか)


 アサの胸は期待で高鳴った。足も速まる。そうだ、運命の人が同じ町に住んでいるとは限らない。今まで巡り合わなかったのは、運命の人がこの町ではない、どこか遠くに住んでいたからなんだ。

 一体どこ行きの電車に乗るのだろう。9番ホームを通り過ぎる。8番、7番、6番……。糸は、まだまだというように光り、まっすぐに延びている。1番ホームの入口を過ぎると、まるで別の駅に迷い込んだかと思うくらい、細く狭い道が続いていた。剥き出しコンクリートの壁と舗装されていない地面。こんな場所があったなんて、初めて知った。また、不法侵入させられるのだろうか、と、アサが警戒し始めたとき、0番という表示が目に入った。こんなところにもホームがあるようだった。

 そのときだった。まもなく、0番ホームから電車が発車されます、という放送がかかった。早く早く、と階段の上から、赤い糸がアサを呼んでいる。


(この電車に乗れっていうわけね)


 アサは、一段飛ばしで駆け上がる。ドアが閉まるブザー音が鳴り響いている。


「待って」


叫びながらようやくホームに辿り着いたが、電車のドアはきっちりと閉められたところだった。小指から延びた糸は、閉じられたドアの中に繋がっていた。電車がゆっくりと動き出し、だんだん速度を増して遠ざかっていく。糸がするすると伸びていく。彼女は咄嗟に右手で糸を押さえようとしたが無駄だった。糸は電車の速度でどんどん伸びて、線路の向こうに消えていった。

 彼女は、その場に息を切らしたまま立っていた。電車を追いかけて遠くまで見えていた糸は、もう数メートル先までしか見えなくなっていたが、糸の先が遠ざかり続けているということが彼女には分かった。体の中の何かが少しずつ抜き取られて遠い場所へ持っていかれるような感覚に襲われた。


 アサは、いつまでもホームに立ち尽くしていた。


(電車の中にいたんだ。もう少しで会えたのに)


 ホームには他に誰もいなかった。駅員の姿もなかった。スピーカーの上に鳩が止まってクルッククルックと鳴いている以外は、静かだった。他のホームには、しょっちゅう電車が出入りしていたが、ごとごとという地響きや、発着を知らせるアナウンスは、別の世界の出来事のように遠かった。

 ホームの真ん中まで歩いていって、時刻表を発見した。小さな時刻表だった。それもそのはずで、そこには、わずか三つの数字が書かれているだけだった。一日三本。ホームの天井からぶら下がっている時計を見上げた。次の電車が発車するのは今から三時間後だった。

 一旦、外に出て、何か別のことをして時間を潰すことも考えたが、何をして時間を潰したらいいのか思いつかなかったし、したいことも考えつかなかった。運命の人を探すこと以外には興味を持てなかった。

 アサは、壁際のベンチに腰を下ろした。ベンチはプラスチック製で、シート部分が三分の一ほど欠けていて、錆びた骨組みが覗いていた。後ろの壁は、スプレーの落書きで埋まっていた。ここに腰掛けていると、世界から忘れ去られたような気がした。

運命の人は、どこへ行ったのだろう。何をするために電車に乗ったのだろう。もう、どこかで降りたのだろうか。

 重く湿った空気が彼女を取り巻いていく。やがて、叩きつける激しい音とともに、雨が降り始めた。遠くのホームは霧の中に掻き消えた。頭上の屋根に、雨が激しく叩きつけられて、がんがんと音が鳴っている。まるで、ここから追い出そうとしているみたい、と弱気になったアサは思った。


(本当に運命の人に会えるんだろうか)


 アサは思わず呟いた。呟いた途端、全身が震えて背筋が寒くなった。糸は今にも消えそうだった。


(信じていないと、見えないんだ)


 気持を集中する。でも、集中すればするほど会えないんじゃないかという不安にとらわれる。頭の中に、さまざまなことがよみがえってくる。誰彼構わず、運命の人はいるんだと宣言している自分の姿が思い浮かんで、アサは唇を噛んだ。馬鹿みたいだった。霧の中に元恋人たちが、順番に現れては、彼女に別れを宣告して去っていった。運命の人なんかいない、と彼らは言った。彼女は俯いたまま、首を振り続けた。両手を握りしめて、目をつむる。


 そんなことはない。運命の人は、必ずいる。

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