第3話 希望の抜け殻

 町は、すっかり闇に包まれていた。すすけて地味だった町並みも、ネオンサインに彩られると、なかなか風情があった。しかし、一人で歩くには寂しかった。道を走る車のライトがアサを照らし出し、去っていく。上等なワンピースを揺らしながら歩く彼女を見て、タクシーがスピードを落とし、軽くクラクションを鳴らした。振り向いたアサに向かって、運転手は愛想よく笑いかけ、乗るようにジェスチャーで薦めるが、アサは首を振って断った。その途端、タクシーは、排気ガスを吐きかけて去っていった。


 アサは疲れた足を引きずりながら、糸に向かって言ってみた。


「いい? あれが人間の発明した文明の利器よ。あれに乗ればどんなに離れていても、息一つ切らすことなく短時間で移動することができるわけ」


 もちろん、糸に嫌味が通じるはずもない。アサは、相変わらず糸の指し示すまま、自力で歩いていくしかなかった。


(目的地さえ分かれば、こんな糸に頼らずに自分で最短ルートを選んで行くのに)


 目の前のほの明るく光っている糸を、アサは恨めしいような思いで見つめる。糸は、目を細めても頭の角度を変えても、数メートル先までしか見えないのだった。彼女が進むと、進んだ分だけの糸が先に現れる。数メートル先の糸は、そこから先を見ることはできなかったが、途切れているわけでも消えているわけでもなかった。確かにどこかに繋がっているのだという確信がアサにはあった。


(でも、わたしが知りたいのは、どこに繋がっているかということなのに)


 ほんの数メートル分しか見えない進路が、もどかしかった。こんなに歩いたのに、運命の人どころか、相手に繋がるヒントすら得られないなんて。

 醜い思いが沸いてこないよう、思考を停止する。目の前の糸だけを見つめて黙々と足を運び続ける。外灯に照らされた薄闇の中、糸は赤く強く光っていた。はっと気づいて顔を上げる。今までより、糸が遠くまで見えるような気がした。糸は、歩道に沿って真っ直ぐ延び続け、途中の建物に立ち寄ることも、小さな路地に入り込むようなこともなく、はっきりと目的地を指し示しているようにアサには感じられた。


「やっと、やる気になったのね?」


 アサは、迷いのない糸の様子に少し勇気づけられた。痛む足を引きずりながら歩き続ける。信号で立ち止まると、膝ががくがくと震えた。でも、運命の人に出会えたなら、こんな疲れなど一瞬で消え去ってしまうに違いない、と自分に言い聞かせた。

やがて、アサは、よく見知った門の前で立ち止まった。今日の出発地点だった。


「信じられない」


 彼女は、糸に向かって嘆く。


「まさか、運命の人がこのアパートの住人だったってわけじゃないでしょう?」


 小指を見る。糸は、もうどこも指し示していなかった。今日はこれで終わりというように、だらんと地面に向かって垂れ下がっていた。運命の人がこのアパートに住んでいるわけではない、ということだけは、分かった。


「一日歩かせておいて、今日はもう暗くなったから明日にしようってわけ? で、ご丁寧に家まで送ってくれたってわけね」


 糸は無邪気にアサの部屋まで続いている。早く帰って寝ようと言わんばかりに。とぼとぼと階段を登る。鍵を開けて部屋に入る。

 部屋の中には、希望の抜け殻のようなものが、漂っていた。朝、赤い糸の存在を知って、希望に満ち溢れてせっせと準備をした彼女の残像だった。どう、見つかった? と、残像はアサに尋ねた。アサが黙って首を振ると、残像は小さくなって消滅した。服を脱ぎ、浴室に飛び込む。シャワーの蛇口を捻る。シャワーヘッドから出てきた湯はぬるく、まるで水のようだったが、頭を冷やすにはちょうどいい、とアサは思った。

 化粧を落とし、髪を乾かし、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。戸棚から取り出したシリアルを皿にあけて牛乳をかけると、黙々とそれを食べた。シンクで簡単に食器を洗う。バスルームで歯を磨きながら、鏡の中の自分に言い聞かせるようにアサは呟いた。


「悲観したり、悩んだりしている暇があれば、探せばいいんだわ。今日はもう探せないのだから、くよくよ落ちこんでも仕方がない」


 部屋の照明を消して、ベッドに倒れこむ。なるべく余計な考えを追い払うように、枕に顔を押しつけてうつ伏せになった。


(何も考えずに寝かせて)


 アサはそう願った。彼女の願いを引き受けるように、小指から伸びた赤い糸がするすると舞い上がり、蚊帳のように広がりベッドごと包みこんだ。糸に包まれると、何だか気持が和らいだ。全身から力が抜けて、何か大きなものに身を委ねているような気持がした。やがて、アサは規則的な深い寝息をたてはじめた。赤い糸の中を眠りのリズムが静かに満ちていった。

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