第2話 赤い糸の導き
目が覚めると、窓から差し込む光が眩しくて、じりじりと熱かった。時計を見ると、針は二時を指していた。一日の半分がもう過ぎている。
カーテンを閉めて、寝返りをうった。起きたところでアサには何も予定はない。大学は長期休暇中だ。晩御飯も朝食も昼食も飛ばしたから、お腹は空いているのに、食べものを探すのも億劫だった。仰向けになる。視界には、黄ばんで古臭く、今にも落ちてきそうな天井だけが広がっていた。
そのとき、赤い線のようなものが、目の前をひらひらと横切った。
(なんだろう)
手を伸ばしてつまもうとすると、線は逃げるように、高いところへ舞い上がった。アサは体を起こして部屋全体を見回した。
部屋には赤い糸が漂っていた。糸は、窓の横を通り天井に舞い上がり、それからベッドに降り立ち、ベッドからぐんぐん伸びている。指を指しながら糸の行方を辿って行く。糸の端は、あちこち迂回したあげく、アサの左手の小指に繋がっているようだった。小指の、ちょうど第二関節のあたりには、赤い糸がぐるぐると巻きついている。そして、その先端は指の中に吸い込まれて消えている。
(何かの病気?)
アサはまず用心深くそう考えてみた。だけど、指から赤い糸が出てひらひらと部屋の中を舞う病気なんて聞いたこともなかった。泣きすぎたせいでひどく頭が痛むのと、目が腫れているのと、お腹が空いて気分が悪いという以外に、体に変調はない。小指を丁寧に観察してみるが、どんな小さな傷も見つけることはできなかった。
「運命の赤い糸」
アサは呟いた。それ以外に考えられなかった。友人達に散々呆れられながらも、運命運命と言い続けてきた甲斐があったのだ。これが伝説のとおりの不思議な糸なら、この先は運命の人に繋がっているはずだった。アサは、顔を輝かせながらしばらく小指から伸びた赤い糸を見つめていた。それから、今度は逆方向に糸を辿って、部屋の中を見回した。蝶のようにひらひらと部屋中を舞っている糸を注意深く目で追って辿って行くと、ドアの隙間から出て外へ繋がっているようだった。
(早く探しに行かなくちゃ)
ベッドから立ち上がる。戸棚からシリアルを出して皿にあけると、もくもくと腹ごしらえをした。それから、バラの香りのボディーパウダーをはたいた。それから、下着を身につけ、開けっ放しのクローゼットを覗き込み、彼女が二番目に気に入っているワンピースを手に取った。一番気に入っているのは、昨夜活躍し損ねて、しわくちゃになっていたからだ。
――運命の人なんかいない
ワンピースを着ようとした途端、彼女の頭の中で、別れた男が忠告した。
「いるわ、運命の人は確かにいる」
彼女は、自信たっぷりに男のセリフを否定した。
部屋を飛び出してから、もう二時間が経っていた。最初の頃は、糸の示す方向に向かって走っていたのに、今では足を引きずるようにして歩いている。気分もだんだん落ち込んでいた。歩いても歩いても、小指から伸びる赤い糸がどこに導こうとしているのか、全く分からなかった。糸が見えるのは、数メートル程先の部分までだった。アサが進むと、進んだ分だけ糸は指から体の中に吸い込まれていき、その代わり、先がまた少し見えてくる。糸は、光の当たり具合できらりと消えてしまうほど細いのに、風に煽られても流れたりしない。その代わり、意志を持っているように、勝手にひらひらと動く。
(仕方ない。運命の人がそんなに簡単に見つかるはずがないのもの。でも、いつかは会える。糸の先には絶対に運命の人がいる)
アサは自分に言い聞かせ、重い足を一歩一歩進めていく。糸は、背の高い木立に囲まれた散歩道を進んでいた。青い影が地面を覆い、風が吹くと木洩れ日が舞い落ちる。空中をきょろきょろ見回しながら歩いているアサにつられて、犬の散歩をしていたおじいさんが空を見上げて、首を傾げた。数人がおじいさんにつられて空を見上げた。でもそこには、ぽっかりと晴れた秋の気配が漂う青い空があるばかりだった。アサは、糸を追うのに夢中で、通行人の怪訝な視線には気がつかない。糸がふいに散歩道から外れて、茂みの方を指し始めた。アサは躊躇って立ち止まったが、糸は断固茂みを通れと言っている。
「ちゃんと連れて行ってくれるんでしょうね」
大丈夫、任せてよというように、糸はぷるんと震えてみせた。アサは、上体を屈めると、スカートの裾を引っ掛けないように片手で押さえ、反対の手で潅木を掻き分けていく。
茂みを抜けると、開けた場所に出た。川とレンガ塀に挟まれた土手道だった。まっすぐな道に沿って続いているレンガ塀は、ちょっと見上げたくらいではてっぺんが見えないほど高かった。
これなら茂みを進むよりも随分楽だったが、糸は塀の途中、数メートル先で、中に吸い込まれるように曲がっていた。
「ちょっと、どういうこと?」
彼女は手元の糸に抗議してみるが、糸は何も答えない。
(壁をよじ登れってことかしら)
アサは自分の服装を点検する。そして、スカートを太股までまくり上げて、裸足になれば出来ないこともないと覚悟を決めた。
近づいてみると、糸の曲がっているところには、ぽっかりと小さなアーチ状の入口があった。錆びた鉄柵が遮っていて、錠前が見えたが、鍵は掛かっていないようだった。アサはそっと門を押してみた。門は、音をたてることもなく静かに開いた。
目の前には、美しい庭が広がっていた。丁寧に整えられた芝生が、黄緑色に光っていた。その中を、今にも空へ駆け上りそうな真っ白な天馬の彫刻があり、複雑な段差を持った噴水があった。背丈ほどの木々がたくさん植えられ、白や赤の花をいっぱいにつけていた。
(一体ここはどこなのだろう?)
アサの気分は高揚していく。
(運命の人に出会うのに、ふさわしい場所だわ)
庭の奥には、白い大きな建物があった。神殿のような重厚な作りで、壁はガラス張りで、大きな柱の間から中の様子がよく見えた。糸は庭を横切って、白い建物の方へ伸びていた。
アサは、庭の中を颯爽と歩いていく。どうやって中に入るのだろう。きょろきょろしているアサに構わず、糸は建物の陰へ回りこんでいく。慌てて追いついてみると、そこは、道具が転がっている物置のような場所だった。日陰で黴臭い。わざわざこんなところを通らなくてもいいのに。せっかく盛り上がった気分が台無しだった。しかし、糸はアサの気分なんか、まるで無視して、さらに奥へと伸び続けていく。ぬかるんだ足元に顔をしかめ、顔の前を飛ぶ小さな虫を手で追い払いながら進んでいくと、聳え立った壁の一箇所に、飾り気のない鉄の小さな扉を発見した。糸はここを通れと言っているのだ。
手をかけて押してみる。ぎい、という大きな音をたてて、扉は開いた。糸はするりと中に入った。アサも仕方なく、ゆっくりと建物の中に滑り込む。
中は薄暗かった。立ち止まって目が慣れるのを待った。そして、胸を高鳴らせながら、ゆっくりとこの『神殿』を見渡した。
真っ白な壁、高い天井。外から見て想像していたとおりの光景だったが、ただ、想像と違ったのは、白い壁一面に、スポットライトに照らされた油絵が展示してあったことだった。つるつるに磨かれたフロアの中央には、彫刻が入った透明ケースがあり、その周りにはロープが張り巡らされていた。アサは、がっかりして全身の力が抜けた。ここは夢の庭でも神殿でもない。ただの美術館だった。
「何よ、お金を払わず不法侵入で美術鑑賞するのが、あなたの趣味ってわけじゃないでしょうね」
アサは指をくるくる回して糸に毒づいた。糸はひらひらと舞い上がり、絵を順番に巡回していく。
平日で、特にイベントも催されてないせいか、美術館に人の気配はなく、ほとんど無人に近かった。広い部屋の隅で座っている監視員が欠伸をかみ殺している。他には、美術学校の学生らしき女の子が一人、ソファーで眠っている老人が一人、それから会場の隅で熱心に絵を眺めている青年が一人いた。監視員も含めて、彼らのほとんどがアサの登場に気づいていなかったが、ただ一人、ドアの近くにいて、ギイという音を聞いた青年だけが、突然現れたこの女の子に驚いていた。
青年は、何度もこの美術館に来ている常連だったが、あんなところにドアがあるなんて全く知らなかった。しかも、ドアから現れたのは、どう見ても美術館の関係者とは思えない女の子だ。髪の毛には緑の葉っぱが一枚絡まって、きょろきょろしている。不思議の国に転がり落ちたアリスのようだった。青年は、しばらくアリスを観察した。突然状況を理解したのか、アリスは辺りを見回すのをやめ、唇の端に白々しい微笑を浮かべると、まるでもう既に美術品を小一時間は見ましたというようなうっとりとした表情に変わって、その場の空気に溶け込もうと努めている。その変貌ぶりが可笑しくて、青年はくすりと笑った。
アサは、笑い声をたてた青年をじろりと睨むと、絵の鑑賞の邪魔をしないでというように生真面目な顔をして、人差し指を口にあててみせた。青年は、さらに笑いがこみ上げてくるのを我慢しながら、アサに向かって生真面目に頷いて見せた。そして背を向けて、壁の絵を鑑賞している振りをして笑いがおさまるのをやり過ごした。
アサはそんな青年の様子にはまるで気がつかない。
(よかった、誰にも見つからなかった)
警備員に見つかって詰問されるのはごめんだった。まさか、赤い糸のせいだとも言えない。
彼女は、手を後ろに組み、絵ではなく、絵を眺める人たちを、しげしげと眺めていく。きっと、この中に運命の人がいるはずだ。いや、もしかしたら絵の中に何かヒントがあるのかもしれない。アサは、今までにない熱心さで絵画を眺めていった。運命と題された絵は、特に時間をかけて見た。しかし、糸の導くままに歩いていくと、いつの間にか出口に辿り着いていた。
「まだ何も見つけてないんだけど?」
アサは抗議したが、糸は真っ直ぐ美術館の外を示していた。ため息をつく。一体何のためにここへきたって言うんだろう。アサはベンチを見つけて腰を降ろした。目の前には一面の赤い空。薄闇が広がり始めていた。
途方に暮れているアサの前を、先ほどの青年が通り過ぎていった。彼はアサを見つけたが、笑いがこみ上げるのを我慢しながら通りすぎたので、アサには青年が自分に向かって笑いかけたように見えた。
「わたし、あの人でもいいよ?」
糸は答えない。相変わらず、どこだか分からない方向を、自信たっぷりに指し示していた。
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