アサの赤い糸
寒竹泉美
第1話 運命の人は必ずいる
二週間ぶりに会えた恋人に、
「もうこういうの終わりにしよう」
と、言われたアサは全身の力が抜ける思いがして、口につけようとしていたコーヒーカップを再びソーサーに戻した。ガチャリと耳障りな音がしたが、彼女には聞こえていなかった。
男の顔を呆然と見つめる。このあと二人並んでカフェを出て、新しくできたばかりのビリヤード場でナインボールを三ゲームほど行って、それから映画を見て(映画は男が好きなヒューマンドラマだ)、フレンチのレストランでディナーを食べるはずなのに?
「こういうのって、たとえば、こうやって一緒にコーヒーを飲んだりすること?」
と、アサは恐る恐る尋ねてみた。男は厳かに頷いた。そして、
「それも含めて全部」
と、付け加えた。彼女は声を震わせながら、さらに尋ねた。
「全部終わりなの?」
男の頭は垂直にスウィングした。
「もう会わないってこと?」
もう一度滑らかに動く。
「もうわたしのこと、好きじゃなくなったんだ」
男の頭が四回目の同じ動作を始めたとき、アサはようやく事態を本当に理解した。
胃の底から熱い塊がこみ上げて、全身をわなわなと震わせた。熱い塊は体中にぶつかって暴れまわったあげく、行き先をなくして最後に彼女の目から飛び出した。両目から熱い涙が零れ落ちる。アサの肩は小刻みに震えたが、男の手がその肩を抱えることはなかった。
「あなたは、」
と、アサは言ったが、言葉の続きは嗚咽にさらわれた。今から言おうとしていることが彼女の心に先回りして、ますます悲しくなったのだ。
男は、コーヒーに手もつけずに、言葉の続きを忍耐強く待っていた。これが最後の務めだとばかりに。アサは、嗚咽を止めようと深呼吸しながら、唇を震わせた。
「あなたは、運命の人じゃなかったんだ」
それから、またわっと泣き出した。男は彼女を困ったように眺めていたが、やがて、決心したように口を開いた。
「あのね、俺はここで君と別れるわけで、君に何か忠告できるような立場じゃないんだけど、一つだけ言っておこうと思うんだ」
アサは頷いたが、運命の人という役割を降りた男の声は、いつもよりも優しい気がしたので、いっそう恋しくなって再び嗚咽した。泣き声が落ち着くのを待ってから、男は言葉を続けた。
「運命の人なんていないよ」
「いるわ」
泣きながらも、きっぱりとアサは答えた。男はため息を吐く。予想通りの反応だったからだ。
「じゃあ、譲歩しよう。運命の人はいるのかもしれない。しかし、それは、少なくとも俺じゃなかった」
男は総括した。そう、これで全て終わりだ、引き上げようというように。
アサは、男が本当に終わろうとしていることに気がついて、身震いした。いっそ彼の足にすがって行かないでと泣きついてみようか。でも、そんなことをして、何の意味があるというんだろう。去ろうとしているということは、運命の人ではなかったのだ。運命の人でもない相手を引きとめて、一体どうしようというんだろう。
「じゃあ、元気で」
葛藤のあげく、理性が勝った彼女は、ようやく別れのセリフをしぼり出した。
男は、満足したように微笑んだ。そして、じゃあと言って立ち上がると、二人分の勘定を置いて出て行った。男の後ろ姿がカフェから見えなくなると、彼女はウェイターを呼んでお金を支払い、ゆっくりと立ち上がった。カフェのガラス戸を押して外に出ると、肩を落として歩き始めた。
足を一歩進めるごとに、自分の骨がぐにゃぐにゃと曲がっていくような気がした。再び、両目から涙が溢れて止まらなくなった。景色が歪んでどこを歩いているのか分からなくなる。このまま溶けてしまって、アスファルトを流れる水になるんじゃないか、と彼女は思った。
(消えてしまいたい)
通りに面したカフェの外席は、肩を寄せ合って笑っている恋人たちで埋まっていた。俯いて歩いていると、ショーウィンドウの中のマネキンにも笑われているような気がした。デパートのからくり時計がワルツを奏で始める。まだ十五時だ。念入りにおしゃれをしたのに、こんな時間に一人家に帰るのは惨めだった。かといって、恋人たちの溢れる休日の町を、一人歩き続ける気分にもなれなかった。
アパートの入口をくぐる。音をたてて階段を登っていく。ドアたちが、自分をじっと見つめているような気がして、アサはますます俯いた。
(何もかもが最悪)
肩に掛けていたバッグから鍵を取り出す。早く部屋に入りたいのに、鍵穴に差し込もうとして何度も失敗する。背中越しに、ドアたちの嘲笑が聞こえる。ますます焦って鍵を差し込んだり出したりしながら、ガチャガチャと音をたてて無理矢理回す。手が滑って鍵が地面に落ちた。
アサは、バッグも何もかも投げ捨ててここから逃げ出したくなった。でも逃げて、どこに行くというのだろう? アサは、両手を握り締めて、その場にしゃがみこむ。地面に落ちた鍵をしばらく見つめて頭に上った血を静める。息を吐いて鍵を拾い上げ、ゆっくりと鍵穴に差し込んで回した。ドアを開ける。大きな音が鳴るのも構わず、ばたんとドアを閉めた。それから、靴を脱いで、下を向いたまま部屋の突き当たりまで歩いていくと、服のままベッドの上に倒れこんだ。
もう泣く気力もなかった。緊張と興奮で眠れなかった昨夜のせいで、寝不足だったアサは、そのまま眠りに落ちていった。
アサを夢の世界から引きずり出したのは、電話のベルだった。目を開けると部屋の中は薄暗く、物の形が分かりにくいほどだった。電気をつける。窓の外には、暗く静かに沈黙する闇が広がっていた。
電話はしつこくアサを呼び続けている。一体何の用だって言うんだろう。寝起きで機嫌が悪かった彼女は、急にはっと気がついて、ベッドから体を起こし、電話の受話器に手を伸ばす。
(電話は、彼からかもしれない)
もしかしたら、やっぱり考え直して明日また会おうと言うのかもしれない。それとも、今からそっちに行っていいかと言われるのかもしれない。アサは受話器を耳に押し当て、震える声を押さえながら、
「もしもし」
と、言った。
「お客様、御予約の時間が過ぎていますが……」
アサは、がっかりして受話器を壁に投げつけそうになった、が、予約したのはこちらなのだ。お店の人に罪はない。アサは急に体調が悪くなって行けなくなったという事と、連絡が遅くなったことをレストランのウェイターに詫びた。弱々しい彼女の声は本物の病人のようだったので、ウェイターは心から「お大事に」と、見舞いの言葉を述べた。
受話器を置いた途端に、店でとっておきのジビエを頬張りながら二本目の赤ワインをあけて笑いあっている自分と男の姿が思い浮かんだ。
彼女は再びベッドに突っ伏すと、壁に向かって「運命の人はいる」と十回唱えた。
「運命の人はいる」
と、もう一度大きな声で唱えようとしたが、喉に何かが詰まって出てこなかった。アサは、げほげほと咳き込んでベッドの上で転げまわった。着替えずに眠ったせいで、昨夜せっせとアイロンをあてたワンピースがしわになっていた。立ち上がる。乱暴にワンピースを脱いでベッドの上に放り投げる。下着も脱ぎ捨て、裸になった彼女は浴室へ行って、化粧をざばざばと乱暴に落とす。頭からシャワーを浴びる。
(本当に運命の人はいるのだろうか?)
その質問に答えてくれる相手はいない。まさかニュースペーパーの人生相談欄に投稿するわけにもいかない。一度疑問に思うと不安が次々溢れてくる。
(たとえ、運命の人がいたとしても、こんなことをしていたらいつまでたっても出会えないんじゃないだろうか?)
体を拭いて、バスローブを羽織ると、ベッドに腰掛けた。何もする気が起こらなかった。食欲もなかったし、テレビを見る気にもならなかった。
ベッドの上に寝転がると、
「彼は、運命の人じゃなかった」
と、小さく呟いてみた。もうすっかり枯れてしまったと思ったのに、目からは再び涙が溢れ出た。アサは、枕に顔を押しつけて嗚咽していたが、やがて、静かな寝息をたてはじめた。
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