第32話 九尾の妖狐

ー…約束をしよう。


鼓膜にまで纏わりつくような、頭の芯を痺れさせる声。


ー…お前が最後まで耐え抜くのなら、私を好きに呼ぶといい。


指先の神経までなぞられる、いとわしい感覚。


呪符はとっくに破り捨てた。

全てを見ているはずなのに、血を吹く思いまで筒抜けであるはずなのに、それでも刀は沈黙を守り続けている。


(…あくまで、俺に呼ばせる気か)


ラシウスはそっと目を開くと忌々しい名を口にした。


「来いよ、ツキ」


怒涛の変化はその一言で引き起こされた。

ラシウスの目の前で紫を帯びた銀色の光が散乱する。

突如現れた竜巻は空まで登り、風の中に白い影が舞い降りる。

九つに割れた豊かな尾が視界を撫でると、激しく吹き荒れていた風が光と共に砕け散った。


ハラハラと、氷のように舞い散る残像。

その中に艶然と立つのは、妖刀『繊月霈然せんげつはいぜん』を手に持つ、白を纏った男だった。

恐ろしいほどに整った顔つき。

抜けるように白い肌。

そして際立つ、月の光をそのまま閉じ込めたような金色こんじきの瞳。

腰まで流れる白い髪は新雪よりも淡く眩しく、同じ色をした獣の耳と九つの尾は髪の延長上に優美に揺れていた。


「あ…あぁ、ツキ様。貴方をどれほど待ち焦がれたことか…」


身体中を振るわせたのは、もはや恍惚を通り越し熱に染まったファルジナだ。

死神部隊は異常すぎる現象に思わず手を止め、立ち去ろうとしていたヴィンセントとアムシェも足を止めた。


「なん…だ、ありゃ!?ヴィンセント、知ってるか!?」

「いや。だがあれは随分異国の妖だな」


レイドはゼナを支えながら一歩ずつ近付いた。


「はぁ、はぁ…、ラスにあれを近づけたら駄目だ。ただでさえあれだけ弱ってんのに、また取り憑かれでもしたら今度こそ廃人になるぞ!」


現世に現れた妖狐は周りには目もくれず、ゆったり笑うとラシウスを見下ろした。


「我慢強さはお前の美徳だが、もう少し早く呼べばいいものを」


滑らかに撫でる声に負けじとラシウスが睨み上げる。


「呼ぶのはこれきりだ」


妖狐は優雅に身を屈めると、ラシウスに顔を寄せ口づけを落とした。

柔らかな触りと、清麗な花のような香りがそっと離れる。


「この唇は、すぐに出来もせぬことを言う」

「…」

「お前は呼ぶ。何度でも。守りたいものがある限りな」


囁きと共にその姿がラシウスの中に溶け込んでいく。

眩い光がほとばしり一面が白く染まる中、立ち上がったラシウスの左手には抜き身の繊月霈然が握られていた。

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