嘆き悲しむ声■ 脱フュージョン――否定的思考から距離を置く方法――

前回と前々回では、「超自我」や「よそ者的自己」、「自動思考」といった用語を挙げて、認知療法および僕の心的状態を解説した。

そこで反省しなければならないのが、自動思考は厳しい言葉だけではないと伝え損ねたことである。

どういうことかというと、自動思考には「嘆き悲しむ声」もあるということだ。

たとえば、「僕は孤独だ」だったり、「僕はダメなやつだ」だったり、エヴァンゲリオンのシンジ君のような言葉も自動思考に含まれる。

とはいっても、「嘆き悲しむ声」に対しても前回紹介した認知療法の手法で対処することはできる。


①出来事:朝起きる

②自動思考:「僕は孤独だ」

③感情:悲しみ90点、恐怖70点

④根拠:「僕は孤独だ。なぜならば、誰も心配してくれないからだ」

⑤反証:「でも、自分から連絡すれば話を聞いてくれる人はいるじゃないか」

⑥思考の訂正:「『僕は孤独だ』と思ったが、実際は話を聞いてくれる人もいるよね」

⑦結果の感情:悲しみ60点、恐怖40点


といった感じだ。


しかし、僕にとっては「嘆き悲しむ声」の対処に認知療法を用いるのは些か弱い気がする。

なぜかというと特段理由があるわけでもないのだが、実際に行ってみても釈然としないことが多い。

もちろんこれは僕にとってという話であって、一般的に効かないという話ではない。

ただ、僕の「嘆き悲しむ声」に認知療法はあまり強く効かないというだけの話である。


では、僕は「嘆き悲しむ声」に対して何もしていないのかというと、そういうわけでもない。

僕は「嘆き悲しむ声」に対して、アクセプタンス&コミットメント・セラピー(Acceptance & Commitment Therapy, 以下ACT)の技法を適用している。

今回は僕が用いている技法を3つほど紹介しよう。

※このテーマでも少々長くなるため、前後編に分けて紹介する。


はじめに、ACTとはどのようなものかというと、思考の受容と価値へのコミットメントを主とする心理療法であり、認知行動療法の一形態である。

具体的に言うと、否定的な思考をねつけるのではなく、それが無害なものであると認識して受容﹅﹅する。

自分の価値・目標を明確化し、それに向かって具体的に関与コミットメントする。

これは極めて簡単な説明であるが、これから僕が語るACTについて理解するにはこれで十分だろう。



では技法の紹介に入ろう。


   ①脱フュージョンディフュージョン

一つ目は「脱フュージョン(ディフュージョンとも言われる)」という技法(というよりは過程プロセス)である。


まずフュージョンとは何なのかということを説明しよう。

フュージョンとは、特定の考えに囚われ、行動を支配されてしまっている状態のことである。

ドラゴンボールのフュージョンをイメージしてみよう。

一方が自分自身、もう一方が思考だと考え、それらが一つになるフュージョンすると、「自分自身」はあたかも「思考」そのものであるかのように認識し、そのように振る舞う。


たとえば、先ほど例に挙げた「僕は孤独だ」や、前回と前々回に取り上げた「よそ者的自己」の言葉で頭がいっぱいになり、為すべき行動はおろか、自分のしたいことすらもできなくなってしまう。さらに、物事が良い方向に進まない言動をとってしまう状態を「フュージョン」と呼ぶ。


もっと具体的にたとえると、「僕は孤独だ」という思考に囚われてしまうと、実際はそうでないにもかかわらず、孤独相応の言動(たとえば自ら他者と距離を置くなど)をとり、本当に孤独になるような状況に自らをもっていくようになる。


一方で脱フュージョンとは、そのフュージョンから抜け出すことである。

具体的には、思考から自分を切り離し、または思考から距離を置き、思考自体を自由にさせることである。


ここで留意しなければならないことは、ACTの基本的な考えとして、思考はコントロールしようとすればするほどコントロールできなくなり、撥ねつけようとすればするほど自分に取り憑こうとすることである。

たとえば、「自分は孤独じゃない」と思おうとすればするほど、不快感は強くなる(ここで認知療法と異なるのは、証拠を見つけようとしていないところ)。


では思考から切り離す、距離を置く、そして思考を自由にするとはどういうことなのか?

それは以下のように言い表せる。


●思考と友だちになる

●思考を大したことないもの、取るに足らないものと見なす

●思考は単なる言葉でしかないことに気づく


さらにわかりやすく表すために、有名な本の名前をもじってみるとこうなる。


「思考は現実化しない」

※ただの喩えであって、例の書籍を批判しているわけではない(というかまだ読んでない)。


たとえば、「僕は孤独だから、これからもずっと孤独のままなんだ」という思考があったとしよう。

確かに現時点では孤独かもしれない。

しかし、それから死ぬまでずっと孤独であることはありえるだろうか?

きっと、その人が100歳のジジイなどではない限り、100%に近い確率でありえないだろう。

まだ学校で勉強したり仕事をしたりしているうちは、死ぬまでの間にほぼ必ず友だちや仲間ができる。

つまり、思考は単なる脅しの言葉に過ぎないのだ。


しかし、だからといって思考は敵ではない。

思考は一生付き合っていくものであるため、それを敵だと思っては生きづらくなってしまう。

だから思考は自由奔放な、取るに足らない友だちなのだ。


では、時折脅してくる思考と友だちになるにはどうすればいいか?

「思考に名前をつける」のである。


ところで皆さんには友だちはいるだろう。

そして、その友だちに別の呼び名をつけていないだろうか?

いわゆるニックネームや愛称である。


つまり、思考にニックネームをつけてやろうというのが脱フュージョンの一技法なのである(専門的には「外在化」と呼ばれることもある)。


たとえば、「僕は孤独だ」という思考に対しては、まず孤独なキャラクターを思い浮かべる。

試しにGoogleで「孤独」と打ってみると、「孤独のグルメ」が検索予測に上がってきた。

というわけで、「僕は孤独だ」の思考には「井之頭五郎」あるいは「松重豊」という名前をつけてみよう(井之頭五郎が孤独なのは食っているときだけだし、否定的なイメージもないが、「孤独」という概念が関連していることが重要なのだ)。

ついでに思考の姿も井之頭五郎を想像してみよう。

井之頭五郎が自分に向かって「こりゃまたド直球の孤独だ」と言ってくるのを想像すると、それだけでも面白くなってくるのではないだろうか?


あるいは、単純に「孤独ちゃん」といったかわいらしい名前をつけたり、「孤独の物語」とネーミングしたりするのでもいい。


こうすることによって、「僕は孤独だ」という思考が浮かんできたとしても、「あ、井之頭五郎がやってきたなぁ」とか「孤独ちゃんが遊びに来たなぁ」とか「孤独の物語が始まったなぁ」と一歩引いて思考を観察することができるのだ。



次回は■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る