脱却① 自分を責め立てる、もう一人の僕――超自我のよそ者的自己――

2022年3月17日、僕は4年制の大学を卒業した。

男性はスーツに身を包み、女性は振袖に彩る。

多くは生活スタイルを一変し、学習から勤労へシフトする。

一部はさらに学問を探求するために、大学院へと前進する。

僕は院へ進学する人間の一人だ。

そして、■■■■■■も同様である。

さらに言えば、僕が見誤ってしまった人も。


僕が間違えていなければ、僕は■■と一緒に卒業写真を撮っていただろう。

しかし、それは現実にならなかった。

■■は友だちと一緒に写真を撮り、僕は一人で写真を撮る。

■■には笑い合える人がいて、僕にはいない。


卒業式のあと、僕は仙台の中心街、すなわち仙台駅へ赴いた。

初めに、ランチとしてカフェバーでポークカレーを食べ、次にハイボールバーで酒を飲み、そして今ネットカフェでこれを書いている。

一人で。


すべて僕が悪いのだ。

僕が誤った選択をさえしなければ、こうはならなかった。

僕はすべての展望記憶(約束や予定といった未来への記憶のこと)を破壊し尽くしてしまったのだ。


僕は自分を責めた。

今でも責めている。

「お前が全部悪いんだ。お前があんなことをしなければ、こんな苦しい目にはあっていないんだ!」

そう僕の心が僕を責めている。


このようなことを言う自己のことを、フロイトの言葉では「超自我」と言う。

超自我は親を内在化した自己のことであり、道徳原則に従って自己を構成する。

わかりやすく言うと、厳しい自分のことであり、倫理的に正しい言動をとるよう自分を操作するのである。


これとは反対の自己を「イド」あるいは「エス」と呼び、これは快楽原則に従って自己の欲求を満たそうとする。

つまり、食欲や睡眠欲などの本能的な行動をつかさどる自己である。


そしてこれら2つのバランスを保つのが自我である。

しかし精神に不調をきたしている状態では、それらのバランスをとることができなくなっており、異常に厳しい自分に支配されていたり、自分勝手な自分に振り回されたりする。

僕は前者の状態と言える。

厳しい自分を抑えられず、自我が負けてしまっている。


ちなみに、超自我は厳しいだけでないことを留意しておかなければならない。

超自我は励行的な側面ももつ。

たとえば、「眠くて眠くて仕方がないけれど、あともう少しだから頑張ろう!」と励ましてくれるのも超自我である。

というのも、先述した通り超自我とは親を内在化したものだ。

親のように自分を叱り、親のように自分を励ますのが超自我なのである。


しかし、親が厳しく叱るだけで、ほんの優しさもないと、励行的な側面は内在化されず、厳しく叱る親だけが自分に宿る。

ある分野(メンタライゼーション理論のこと)では、この必要以上に自分を責め立てる自己のことを「よそ者的自己」と呼ぶらしい。

そして、よそ者的自己は体の一部に外在化することがある。

その代表的な例が手首だという。

境界性パーソナリティ障害の患者や俗に言うメンヘラがリストカットを行うのは、手首に外在化されたよそ者的自己を排除するためだと考える人もいる(僕自身はそれには無理があると考えている)。


また、よそ者的自己を他者に外在化することもある。

自分で自分を責めているのに、ある他者が自分を責め立てていると思い込み、その他者を排除することでよそ者的自己も排除しようとする。

これを心理学的には「投影性同一視」と呼ぶ。

これは境界性パーソナリティ障害によく見られる症状だ。


そして、よそ者的自己を外在化できない、つまりよそ者的自己が自分を支配してしまっている場合、自分自身を殺す、すなわち自殺することもある。


以前僕は自殺しようとした。

これをメンタライゼーション理論と呼ばれる分野では、自分を責め立てて仕方がないよそ者的自己を自分ごと殺そうとしたと見なされるという。

正直、僕にはそのような感覚はない。

僕が死のうとしたのは、後悔や寂しさによるものだし、自分を責め立てる自分を殺してやるとは思いもしなかった。

しかし、人間には無意識というものがある。

メンタライゼーションでは、無意識のうちによそ者的自己に敵対心をもち、それを排除しようとしているのかもしれない。


確かに僕は、罪悪感という言葉を頻繁に用いていた気がする。

誰に対する罪悪感かと聞かれると、確かに答えることができない。

僕は自分自身に罪悪感をもっていたのかもしれない。

というかさっき僕は「お前が全部悪いんだ。お前があんなことをしなければ、こんな苦しい目にはあっていないんだ!」と書いたばかりであった。

それに僕はなぜか誰かに謝っていた。

そこまで傷つけるようなことはしていないはずなのに、■■などに執拗に「ごめんなさい」と謝っていた。

僕は■■によそ者的自己を外在化していたのかもしれない。


話は変わるが、よそ者的自己とは、別の分野では別の概念に似ている。

それが「自動思考」のことだ。

自動思考とは、ある刺激に対して反射的に浮かび上がる考えのことであり、それはたいていの場合セリフである。

たとえば、緊張にひどく弱い人ならば、人前で発表するとなったときに「お前がうまくいくはずがない!」と自動思考がささやくのである。

ほかに例を挙げるとしたら、好きな人に告白して振られたとき、「お前に彼女ができるわけがないんだ!」と自動思考が自分を罵倒する。


そのような自動思考にメスを入れるのが「認知療法」である。

次回は認知療法について書くことにしよう。

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