愛しくて、切なくて、悲しいトリガー

僕には二人の姪っ子がいる。

1歳と0歳の小さな子どもだ。

僕はこの子たちを抱っこすると、癒やされるのと同時に、悲しくなる。

どうしてだろうか。この三日間、その理由を考えてみた。

その結果、二つの理由を思いついた。


一つ目の理由は、抱っこが■■■とのハグを連想させるからだと考えられる。

子どもたちを抱っこしていると、様々な記憶がよみがえってくる。

過去三年間の幸せな記憶が、明確な映像とともに脳を駆け巡る。

なんて幸せだったんだろう。あの頃に戻りたい。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

僕のせいだった。


二つ目の理由は、子どもたちを■■■に会わせたいからだ。

実は■■は姪っ子たちに何度か会っている。

しかもとても世話が上手で、おむつを替えようとすると暴れる長女のおむつを難なく替えてしまったこともある。

■■も非常に子ども好きで、今でも僕が子どもたちの写真を送っているくらいだ。


この遺書ないし日記にすでに書いていたかどうかわからないが、なんだかんだで僕と■■■の関係は■■ない。

一緒に同じ団体に属しているし、買い物を頼まれたりしている。

言葉では■■と互いに認め合っているくらいだ。


もちろん相手の本心はわからない。

僕からしても、あまり■■という感はない(とはいっても■■自体の感覚を知らないのだが)。


話は戻るが、以上の二つの理由により、僕は再び悲しみに囚われてしまう。

ここ最近までは勉強、読書、執筆などの能動的活動によってなんとか自我を保っていた。

それは目的があるため、それ以外のことはあまり考える隙がないからである。

しかし、姪っ子たちといると、心に隙間ができてしまう。

子どもたちとのふれあいは受動性が強いからだ。

子どもたちと過ごしながら読書などをすればいいと考えることもできるが、そんな余裕はない。子どもたちは結構甘えてくる。


では、子どもたちとの接触自体を能動的活動に変えてしまえばいいのだろう。

となれば、やはりできることは観察だ。子どもたちを観察して、ユニークな事柄を発見することに努めよう。

だが、言うは易しである。実際にできるかどうか、うまくいくかどうかはやってみなければわからない。


最後に正直に言おう。

僕はいまだに■■を好きだ。

「愛している」とは形式上言えないが、そう言いたくなるほど僕は■■を好きである。

きっと、今後僕に新しく■■ができたとしても、心の底では■■を愛したままだろう。

僕はそれほど重い、誤った決断を下してしまったのである。


そんなことを言っていると、またどこかの優しい人に「自分を責めすぎるな」と言われてしまう。

でも、僕はずっと後悔し続けている。

間違いだったことがわかったのが、11月であるため、あともう少しで6ヶ月後悔し続けようとしている。


どこかで書いた教訓をここにもう一度書こう。

「どれだけ関係がマンネリ化したとしても、大切な人がそばにいること自体がかけがえのない幸福なのだ」

内容は陳腐かもしれない。だけど本当なんだ。

もしこれを読んでいる人がいて、かつ恋人がいるならば、上の言葉を忘れないでいてほしい。

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