失敗

 昨日、首を吊った。

 だが失敗した。

 ベルトを縄代わりにしたのだが、僕より先にベルトが逝った。

 もともと死ぬ気なんてなかったのかもしれない。

 ただ、誰かに心配されたくて、中途半端に死のうとしただけなのかもしれない。


 ベルトが壊れたとき、自分の心臓が波打っているのを感じた。

 死ぬときってどきどきするものなんだとそのとき初めて知った。


 僕はこれまで、自殺するのは周りの人への復讐も兼ねていると考えていた。

 しかし、これは間違いだと考え直した。

 自殺する人に復讐を考える余裕などない。

 ただ、苦しくて、つらくて、それに耐えられない。それだけなのだ。

 感謝も、怒りもない。罪悪感は少しあるかもしれない。だが僅かだ。


 幸せだった時間を思い出すとつらくなるんだ。

 そしてそれらを壊したのが自分だと思うと、激しく後悔して、自分を恨む、憎む、許せなくなる。

 僕は昨日、つまり1ページ前に、君に許してくれと頼んだ気がする。

 けれど、許すのは君ではなく、僕自身なのではないかと思った。

 しかし許せない。今の自分をこのような苦しみに陥れた過去の自分を許すことができない。

 だが、過去の自分も今の自分も同じ存在だ。

 許さなければ許されなくて、許せば許される。


 自分のなかに二人の人間がいるような気がする。解離性パーソナリティ障害とかではなく、二人の自分が争っているような感覚。

 一人は赤ん坊だ。しかし少し成長した赤ん坊。6つの基本感情があり、感情のままに笑い、泣き、怒る。

 もう一人はBBCの海外ドラマ〈SHERLOCK(シャーロック)〉のシャーロック・ホームズを想像してもらえるといいだろう。そう、ベネディクト・カンバーバッチ演じるシャーロックだ。カンバーバッチはドクター・ストレンジや映画〈イミテーション・ゲーム〉で主人公である数学者アラン・チューニングを演じた俳優で有名だ。


 彼は僕のなかで僕や赤ん坊を叱る役目を負っている。精神分析学的に言えば、赤ん坊はイド(エス)、シャーロックが超自我の役割を負っていると言えるだろう。自我は何かというと、きっと僕自身だろう。


 補足すると、イドは快楽原則に従ってはたらく人格の要素であり、超自我は道徳原則に従ってはたらく人格の要素だ。そして自我とは現実原則に従って、それら二つを統制する人格の要素である。

 イドはひたすら本能に従い、あるいは快楽を求めて思考したり行動する。一方超自我は親のような役割をもち、ルールや道徳を重んじる。こうすることによってイドと超自我はお互い暴走しないよう均衡を保っている。そしてそれらの強さを調節するのが自我であり、イドと超自我どちらを重視して意思決定するかを調節するのだ。


 しかし赤ん坊(イド)もシャーロック(超自我)も激しい争いを繰り広げるものだから、それを統制すべき僕(自我)が負けてしまう。二人を抑えることができないんだ。

 赤ん坊は君を欲し、シャーロックは「そのようなことは叶わない。こうなってしまったのは君のせいだろう」と赤ん坊を叱る。


 そして昨日はシャーロックが完敗してしまったらしい。

 赤ん坊が大泣きし、それを抑制できるものがいなくなった。だから僕は自殺しようとしたのである。


 しかし、僕は本気で死ぬつまりなどなかったのではないだろうか?

 頑丈でないベルトで死のうとするなんて、無謀にもほどがある。失敗するとわかっていてそうしたのではないか?


 死ぬ死ぬ詐欺みたいなのがあるだろう。死ぬ死ぬ言っていて、実はただ構ってほしくて死なないことをいうのだが、僕はそれを避けたいがために中途半端な自殺を実行したのではないだろうか。

 そこのところどう思う? 赤ん坊よ。

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