エピローグ 想像もしなかった幸せ

 それはクリス襲来の日の夜、私マーシェルの自室。

 そこでベッドの上に横たわりながら、私は呆然と天井を見つめていた。

 今日は様々なことがあって、私の身体は間違いなく疲れていた。

 けれど、私はまだ眠れそうな気分ではなかった。


 ──マーシェル、俺と契約結婚を結べ。


 今日、アイフォードが私に告げた言葉。

 どれだけ眠ろうとしても、私の頭には何度もその言葉が蘇って仕方ないのだ。


「……契約、結婚」


 その言葉を舌で転がしながら、私は思う。


「クリスの時はこんなに、嬉しいことだったかしら?」


 そう呟いた私の顔は、抑えきれない笑みが浮かんでいた。

 分かっている。

 これはあくまで、アイフォードの善意でしかないと。

 私に恋愛感情がある訳じゃなく、親愛と心配からの言葉だと。


「ふ、ふふ、うふふふ」


 ……そう分かっているのにも関わらず、気を抜けばゆるむ頬の対処に私は追われていた。


 こんなところ、メイリに知られたら絶対に笑われる。

 アイフォードに対しては、こんなだらしない姿は絶対見られたくない。

 そんな気持ちから、必死に頬をこねるが、ゆるみきった頬に力が戻ることはなかった。

 どうしようもなく緩みきった頬から私は手を離し、そして小さく呟いた。


「……そっか、これが幸せなのね」


 それは今まで自分を差し出して、すべてを投げ捨てないと手に入れられないと思っていたはずのもの。

 どこかくすぐったくて、油断していたらすぐに笑ってしまいそうになるふわふわした気持ちは私の想像していたものと大きく違って。


 ──その何倍も、素敵なものだった。


 胸からあふれ出してしまいそうなその感情を抑えるよう、私は自分を強く抱きしめる。

 ふと、私の頭にある記憶がよぎったのは、そんな時だった。


「……前までの私であれば、こんなに素直に私は幸せを受け入れられなかったでしょうね」


 ──俺がいつこんなことを望んだ!


 私の頭に、かつてアイフォードに言われた言葉がよぎる。

 それは今でさえ、思い出せば胸が締め付けられる記憶。


 あの時の衝撃は、今でも私の胸にある。

 自分がアイフォードのことを思ってしたことは、無意味でしかないと私が理解したのはその瞬間だった。


 アイフォードは、騎士なんて平穏を望んではいない。


 その時に私はそう気づいていたのだ。

 アイフォードは、何かこの場所で成そうとしていると。

 このまま騎士にすれば、アイフォードはなにか大切な何かを投げ捨てることになる。

 私が侯爵家に縛られるなんて比じゃない犠牲を、アイフォードは払うことになるだろう、とそのことに。


 そしてあの時点なら、私はまだ侯爵家当主を説得できた。

 自分の言葉を覆すことができた。

 それを理解しながら、私はアイフォードを裏切って侯爵家から追い出したのだ。


 ……これ以上、アイフォードが傷つくのが耐えられないという、身勝手な理由で。


 かつて私は、この屋敷に来た頃のメイリにした、この一件は私のせいだという話を思い出す。

 そう、その時の言葉は真実なのだ。

 私があの時見ていたのはクリスでも、アイフォードでもなく。


 私がアイフォードを侯爵家から追い出した時、私が見ていたのは自分の心だけだったのだから。


 それ故に、私はアイフォードにいつかあのことは絶対に償わなければならないと決めていた。

 そして、その前提条件として私が幸せになることなど許されはしない、と。

 だから、あの時。


 ──マーシェルは幸せになるべきだ、とアイフォードが宣言した時、私の人生は変わったのだ。


 気づけば、私の目からまた涙がこぼれていた。

 胸にあるのが喜びなのか、それとも戸惑いなのか、はたまた罪悪感なのか、私にはもう分からなかった。

 ただ、一つだけ私にははっきりと分かる感覚があった。


 今まで自分を縛り付けていた何かが、粉々に崩れ去る感覚が。


 それだけで私は、自分の気持ちどころか、これからなにをすればいいのかさえ、分からなくなっていた。

 なのに、アイフォードは私に整理する時間さえ与えてくれなかった。


「……契約結婚、かぁ」


 未だ夢心地な頭で、私はそう呟く。

 アイフォードがその気でいるなら、私に逃げる時間どころか、迷う暇さえ与えないと言うなら。


「覚悟、しておきなさいよね? もう私も手加減なんてしないから」


 にへり、と熱に侵された顔で笑いながら、私は宣言する。


「私は絶対に貴方に全てを償うから。──そのために必要なら、私が幸せになって、貴方も幸せにしてやる」


 誰も聞いていない、たった一人の部屋での宣言。

 しかし、私は満足げに笑って枕に顔をつっこむ。


 それは、初めて私が死ぬ理由ではなく、生きる意味を手にした日だった。

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