第3話 出発
私から手渡された手紙を見てしばらくの間、メイリは呆然と立ち尽くしていた。
そして、ようやくぽつりと呟く。
「……嘘!」
次の瞬間、私の方を見たメイリの目に浮かぶのは、受け入れられないと言いたげな視線だった。
「う、嘘だと言ってください! どうして、侯爵家を磐石にした奥様を、今! 奥様にいなくなられたら……!」
それは、普段のメイリの様子からは考えられない程、感情的な訴えだった。
特に、メイリは数少ない私とクリスの契約について知っている人間だ。
それ故にここまで必死な表情のメイリに驚きながらも、私は嬉しさを感じる。
こうして、私を惜しんでくれる人がいることに。
……だが、メイリの懇願を私が聞き入れることはできなかった。
「ごめんなさい、メイリ。私にはどうしようも」
「……っ! 申し訳ありません」
私の謝罪に、メイリの顔が泣き出してしまいそうに歪む。
しかし、それ以上メイリが懇願してくることはなかった。
メイリも知っているのだ。
侯爵家当主であるクリスが決めた契約を、私がどうこうはできないことを。
それから、私達は言葉少なに荷物を用意した。
愛人宅へと行く用意だけではなく、この屋敷を後にする用意を。
そしてその先、メイリから私に別れの挨拶が送られることもなかった。
契約結婚は秘密のことで、周囲の使用人達は何もしらない。
そんな状況で、別れの挨拶をすることなど許されなかったのだ。
「申し訳ありません、マーシェル様。私に、貴女を守る力がなくて……!」
……ただのその次の日、愛人宅に行く去り際、メイリは堪えきれなかったように顔をぐしゃぐしゃにしながら告げた。
そんなメイリに対して、私は何も言えなかった。
使用人で、平民上がりの立場の強くないメイリじゃ仕方がない。
むしろ敵も多い中、今まで私に親身にしてくれていたことを考えれば、お礼を言いたいぐらいだ。
言いたいことは山ほどあった。
けれど、それを口にする前に馬車は動き出してしまう。
一人となった馬車の中、私は小さく呟いた。
「……私はまた、一人に戻るのね」
今までの三年間、決して楽な生活ではなかった。
むしろ、それまでよりも遥かに忙しかっただろう。
しかし、一人で過ごすしかなかったそれまでよりも、三年間は遥かに充実していた。
だが、私を助けてくれる人間はもういない。
決して多くはなかったが、私のことを助けてくれた人との思い出。
それは、私にとってかけがえのないものだった。
「お別れ、言えなかったな……」
ふと、侯爵家を後にしたある人のことを思い出したのは、その時だった。
いつか会いたいと思いながら、忙しさのために一度も会いに行けなかったその人の顔が頭に浮かぶ。
何故か、その人に会いたくて仕方がなかった。
「いえ、理由なんて分かりきっていたわね」
すぐに、その理由に思い至った私は、思わず苦笑する。
……もう、会えなくなるその人を思い出しながら。
「例え嫌われてても、会いに行けば良かったなぁ」
震える声が、今更な後悔を呟く。
こんなに早く契約が終わるなら、会いに行っていたのに。
そう、私が平民になる前に。
そんな恨みを、整理などできる由もない感情を、胸の奥に押し込め、私は目を瞑る。
私を乗せた馬車は、愛人宅へと進んでいく。
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