<外伝>完璧な后と愛せない王様 第6話




「いやはや、お邪魔して申し訳ありませんでした」



 常であれば何とも思わぬ──

 ルイスの軽薄な笑みが今は鼻につく。



「邪魔?」


「お楽しみのご様子でしたので」


「いや。勝負はもうついていた」


「おや、どちらが勝ったのですか?」


「彼女だ」



 ルイスが驚いたように隻眼を瞠る。



「それはそれは。まさしくお望み通りのお后様ではありませんか」



『チェスのできる女だといいが』



 ……そういえばそのようなことも言ったな。

 アデル。

 不思議な女だ。

 一見すると何ら欠けるところのない真円のようだが、ふとした瞬間にあどけない、ひどく頼りない表情を見せる。



「本当に仲睦まじいご様子で。このルイス、お二人の愛に感銘を受けました……!」


「そうか。首を胴とつなげておきたくば、その口をさっさと閉じるのだな」



 顔を輝かせていたルイスは即座に口を引き結んだ。

 大扉の前に着いたのはそれから間もなく。

 扉脇に立つ騎士が敬礼し、



「皇太子殿下、テリオス様御入室!」



 地獄の蓋がゆっくりと開く。

 ──皇帝ロギウスの寝所。

 ルイスを後に残し、一人でそこに足を踏み入れる。

 部屋の中は死の匂いで満ちていた。

 いつ来てもこの匂いには慣れない。

 まぶしい光を嫌う病人のため、厚手のカーテンはぴったりと閉じられ、まだ日がある時間帯でも部屋は暗く沈んでいた。ベッド脇に置かれたランプの明かりもぎりぎりまで細く絞られている。



「父上」



 そばに立って声をかける。

 横たわったロギウスはまるで骸骨だ。灰色の乾いた皮膚が薄くこびりつき、落ちくぼんだ眼窩の奥にある《黄金》の瞳だけが不必要にギラギラと輝いている。



「遅い!」



 痰の絡んだ鋭い声が響いた。



「お前は時間もわからんのか。テリオス」


「申し訳ありません」


「この役立たず。うすのろ。出来損ないが」


「本日の報告を申し上げます──」



 ぶつぶつと呪詛を吐くロギウスを見下ろし、簡単に定例報告を済ませる。

 どうせたいして聞いてはいないのだ。体はずいぶん前からだが、最近は頭のほうも怪しい。さっさとくたばってくれればよいのに、これがなかなかしぶとい。

 すでに公務は引き継いでいる。実質的な皇帝は数年前から私だ。しかし、戴冠しなければすべてを得ることはできない。

 いっそルイスにでもとどめを刺させようかと思うが──



「まあ、まあ、陛下。興奮なさってはなりません。お体に障りますよ……」



 薄闇の奥から気味の悪い声がした。

 やはり──いるか。

 ベッドの反対側から禿頭の男がぬっと顔を出した。

 男はにこにこと満面の笑みを浮かべながら、ロギウスに向かって屈み込み、胸の前でそっと聖印を切る。

 呪詛を吐き続けていたロギウスがそれでぴたりとおとなしくなった。それどころか、今度は静かに聖句を唱え始める。



「そう。そう。それでよいのです……」



 子供をあやすように。

 そう呟く男の名はレオナード=エメル。《深緑》エメル家の当主であり、神鳥派教会の大司教だ。

 この男とその配下がべったりとロギウスに張りついていなければ、とっくに私が皇帝になっていたものを。



「では、これで」



 ともかく。

 今は一刻も早くこの部屋を出ることだ。

 そう思い、短い挨拶を述べて踵を返そうとした瞬間だった。



「!」



 ベッドから枯れ枝のような腕が飛び出し、私を強く掴んだ。

 ぞっとしながら振り返ると、ロギウスがギラギラ光る眼で私を睨みつけていた。



「まだか」


「は?」


「子はまだか。と聞いておる」


「父上……お言葉ですが、結婚してまだ三日です」


「早くせんか!」



 大量の唾が飛んできた。

 すぐにでも顔をぬぐいたいところをぐっとこらえる。



「フォルセインの子ができれば、きっと神鳥の加護があるはずだ。それさえ……それさえあれば……! わしの命がかかっているのだぞ。わかっておるのか、この愚図が!」


「まあ、まあ、陛下……」


「失礼いたします」



 乱暴に手を振り払い、早足に部屋を出た。ルイスがはっとした顔で私に続く。

 ──薄汚い老人め。

 なにが神鳥の加護だ。

 子ができたところで、そんな奇跡が起こるものか。

 私の怒りを察したのだろう。ルイスは一言も発さず、私を部屋まで送り届けるとそのまま下がっていった。

 すぐに湯あみをする。

 こびりついた死臭を洗い落とそうと、赤くなるまで体をこすった。

 臭い。まだ臭い。まだ。

 湯から上がって全身に香油を塗らせる。髪の中までもみ込ませて、ようやくひと心地がついた。

 寝室に下がってベッドに倒れ込む。口からため息がどこまでも長くこぼれた。

 ……今宵はどうするか。

 二晩ろくに眠っていない。が、今日もあまり眠れないだろう。

 彼女の部屋に行ってもよい。また他愛のない会話を交わす程度だろうが、彼女と過ごすこと自体は苦痛ではない。

 重い体をベッドから引きずり起こそうとしたとき、



『子はまだか』



 ロギウスの声がよみがえった。

 吐き気がこみ上げる。

 うずくまって目をつぶった。胃の中から上ってきたものをゆっくりと飲み下す。

 息をつき、私は仰向けに転がってぼんやりと天蓋を見上げた。

 ……だめだな。今夜は行けそうにない。

 アデルは今ごろどうしているだろう。

 私を待っているだろうか。

 いや、そんなことはあるまいが。


 ああ。

 チェスがしたいな。



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