<外伝>完璧な后と愛せない王様 第5話
神聖王国では、王は神鳥が選ぶという。
神の御使いとされる信仰の象徴──神鳥フォルセイン。
王よりも尊い存在が王を選ぶ。その選択に文句を言う者などいない。王位をめぐる争いも起こらない。
だが、帝国は違う。
「嘘……ですよね?」
アデルが青ざめた顔で呟いた。
「ご自分のお兄様を殺すなんて、そんなこと……なさるわけありませんわ」
私は肖像画を横目で見る。
絵の中の兄弟は同じ黄金の髪と瞳で、顔の造作もよく似ている。
ただし、兄のほうがより美しく描かれていた。宮廷画家というのは次期皇帝の描き方を心得ているものだ。
「兄上は様々な点で私より優れていた。もし生きていれば、私が皇太子に選ばれることはなかったであろう。そなたが結婚していたのも兄上だったであろうな」
腕を組んで肖像画を眺め、それからアデルに向き直る。
「だが、不思議とそうはならなかった。兄上が死んだとき、その場にいたのは私だけだ。我々は二人きりだった。──偶然にも」
アデルは細く長い指を体の前で組み合わせ、私の視線を静かに受け止めた。
「テリオス様。おっしゃりたいことがよくわかりません」
「客観的な事実を伝えたまでだ。この宮廷で兄上のことを口に出す者は滅多にいない。が、何かの折に噂を耳にしないとも限らぬからな」
「噂……?」
「私が王位継承のため兄上を殺した、という噂だ」
「でも、そんなことなさっていないのでしょう?」
「どうであろうな……」
そっと体を傾け、
「誰がわかる?」
屈みこむように彼女の目を覗き込む。
「私が『殺しておらぬ』と言ったところで、それを心の底から信じる者がどこにいる? そんな者、この宮廷には一人もおらぬぞ」
私がそばを通るとき、臣下たちの目には恐れがある。
兄さえ手にかけたのだ。他の者の首などためらいなく飛ばすであろう──と。
彼らは恐れ、ひれ伏し、ゆえに支配される。
さて、フォルセイン王国というぬるま湯の中で育った姫君は、私にどんな表情を見せてくれるであろう?
そう考えていた私の耳を、
「ここにいます」
力強い声が打った。
私が驚いて体を起こすと、彼女は追いかけるように背伸びした。私の胸に手を当てて言う。
「テリオス様を信じます。わたくしは、あなたの妻ですから」
「……!」
とっさに虹の粒が煌めく瞳から目をそらした。
なんだ?
これでは私が怯えているようではないか。
咳払いして、胸に当てられた彼女の手を取った。
「すまない。つまらぬ話をしたな」
「いいえ。話してくださってうれしいですわ。これで少しだけ……テリオス様のことを知れましたから」
「それの何がうれしいのだ?」
そう尋ねると、アデルは意外なことを聞かれたように目を見開いた。
「だってわたくしたち、結婚する前は一度きりしか会わなかったのですよ? それもお父様たちがいらっしゃる前で、ほんの短い間お話しただけ」
「うむ……」
「恋をするにはまずお互いのことを知らなくては。そう思いませんか?」
「………そう、だな」
そうだ。それが目的であった。
忘れていたわけではないが、なぜか彼女を試したくなったのだ。堂々と初夜を断り、力にも屈しなかった彼女の怯える顔が見たいと思った。
仕返しのつもりか──まったく子供じみた願望だ。我ながらどうかしている。
「アデル。次は何がしたい?」
「そうですわね。テリオス様は?」
「そなたの希望を叶えてやりたい」
「では、テリオス様の好きなことを教えてくださいませ」
……好きなこと。
そんなものを聞かれるとは思わなかった。
「当てて見せましょう。乗馬ですか?」
「ああ。乗馬は嫌いではない」
「狩りですか?」
「狩りも嫌いではないな」
「では……」
アデルの瞳がいたずらっぽく光る。
「チェスはいかが?」
思わず黙り込むと、彼女はふふっと声を立てた。
「当たり。ですわね」
「そなた……チェスができるのか?」
「もちろん」
結論から言うと、彼女はチェスも完璧だった。
一流の指し手だ。そのあと、私は何度となくキングの駒を自ら倒すことになった。
「ふむ。まいったな」
「これでわたくしの九連勝ですわね」
「もう少し手加減してもよいのではないか?」
「まあ。そんな失礼なこと、わたくしにはとてもできませんわ」
すまし顔のアデルに苦笑しながら、もう一戦挑もうと駒を並べていたときだった。
部屋の扉がノックされ、我に返る。
いつの間にか時間が過ぎていた。
「……ルイスか」
声をかけると、扉の向こうから案の定ルイスの声がした。
「お迎えにまいりました。テリオス様」
「ああ。わかっている」
手にしていた駒を見つめる。
それを盤面にそっと置き、立ち上がった。
「もう行かなくては」
「どちらに行かれるのですか?」
アデルはわずかに不安を覗かせていた。あるいは、私の様子から何か読み取ったのかもしれない。
私は微笑んで問いに答える。
「この世の地獄にもっとも近い場所」
「……?」
そう。
あれは地獄の淵だ。
でなければ、なんだというのだろう。
「我が父──皇帝陛下の御許だ」
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