第147話 アイラの物語と、その始まり




 最初の記憶は──イシュタ族の村。

 物心ついたころ、私はすでに野山を駆け回っていた。

 森や川のものを獲って食べ、族長の母に剣を教わりながら育った。

 イシュタ族は帝国北部の森に住む少数部族だ。

 かつては帝国に剣を捧げ、カフラーマ戦役では前線に立って戦った。しかし終戦後、前皇帝は約束した報酬を払わず、イシュタは反帝国の道を選んだ。



『恩義には礼節を。裏切りには報復を』



 それがイシュタの教え。

 幼い私はイシュタの強い剣士になることを夢見ていた。

 裏切者の帝国人を倒し、皇帝の首を討ち取るのが私の目標だった。





 七歳のとき、村は帝国軍に焼かれた。

 大人は全員殺された。勇敢な母は帝国兵を何人も道連れにして果てた。隠し穴に潜んでいた子供たちも見つかって捕えられ、一人だけ別の場所に連れていかれた私は死を覚悟した。

 そこにいた敵の大将は、私を見てこう言った。



「よくぞ生き延びた。我が娘よ」



 世界が逆さになるのを感じた。

 三歳でイシュタ族に誘拐された帝国貴族の娘──

 アイラ=ブラックウィンド。

 それが私だった。

 大人になったら殺そうと思っていた帝国人は、私だったのだ。





 ただひたすらに、剣の腕を磨き続けた。そうすることで呼吸ができた。

 イシュタの剣。

 自分以外に扱う者のいなくなった剣。

 十歳を過ぎると、周囲の者は誰も私に勝てなくなった。ブラックウィンド家の剣術指南役でさえも。

 持て余した父は、私を叔父の元へ預けた。野心家の叔父は私の剣の腕に目をつけ、皇帝に推挙して直属の暗殺者に仕立て上げた。

 そして私は──



「殺せ」



 斬った。

 皇帝の邪魔になる者をすべて。



「殺せ」



 三番目に斬ったのは私を推挙した叔父だった。

 幼いころは、この剣で皇帝の首を獲ろうと思っていたのに。

 それでも、剣を振るう場所があるなら──どこでも構わなかった。





 暗殺以外の命令が下されることもあった。

 剣を使わない仕事は嫌いだったが、断る権利はない。



「私なら、あなたを次の皇帝にすることができる」



 命じられた通りに私は囁く。

 野心を抱く者にとって、これほど甘美な囁きもない。



「あなたのために皇帝の首を獲ってくることができる」



 ……幼い私が夢見たように。

 皇太子の誕生パーティーの夜。

 うす暗い廊下の奥で、公爵は赤い瞳を私に向けた。

 殺しを知っている目だ。

 私と同じ。凍りついている。

 瞬きもせずに公爵は言った。



「殺せ」



 静かな声で。



「………そう言ってほしいのだろう。お前が」



 私は言葉を失った。

 ふいに心を暴かれたような気がした。





 そうだ。私はその言葉が欲しかった。

 イシュタ族の母が最期、私に向かって言い残したように。



「お前は剣士だ。イシュタの剣士だ。皇帝の首を獲れ。報いを受けさせろ……」



 でも、私はイシュタ族ではない。

 帝国人でもない。

 どちらの側に属しても、私は私を殺すしかない。

 だからその代わり、私は私以外の人間を斬った。

 剣を振るうことで私の継続を許した。呼吸を許した。存在を許した。

 皇帝が、公爵を。

 公爵が、皇帝を。

 どちらでもいい。

 早く殺せと言ってほしかった。

 私が私を──許せなくなる前に。





 それなのに、私は初めて失態を犯した。

 シルバスティンの幼い当主。邪魔をしたのは公爵令嬢だった。武器も持たない、ただのか弱い少女。

 その瞳はひどく目障りで。

 その声はひどく耳障りで。

 自分の命すら投げ出すその姿は、私にとって吐き気がするほどおぞましいものだった。

 そして、失敗した。

 ……なぜ?

 その気になれば一瞬で終わるとわかっていた。どうしてそうしなかったのか。

 目障りで、耳障りで、吐き気がする──

 けれど──

 強くて、美しい──

 得体の知れない感情におびえ、私はそれ以上考えることをやめた。

 二度と失敗しなければいい。

 そうすれば、私はまだ継続できる。





「あなたに誰も殺させません」


 殺し損ねた公爵令嬢は懲りもせず、私の望みと正反対の言葉を吐く。

 その言葉が、どれほど多くのものを私から奪うかわかっていない。

 私は剣だ。

 使われなければ意味を失う。私の中のイシュタも消える。


 …………………本当に?


 でも、いつからだろう。

 自分の内に湧き上がる疑問を抑えられなくなったのは。


 本当に……?

 ……私に生きる意味は……ない?





「公爵を殺せ」



 皇帝はついにその言葉を口にした。

 ずっと待ち望んでいたはずだった。

 以前の私なら即座にうなずき、黙って部屋を出ていただろう。

 しかしそのとき、私は動けなかった。

 ひざまずいたまま喘ぐように息を吸い、床を見つめていた。



「どうした」



 顔を上げると、《黄金》の瞳が私を見下ろしていた。

 皇帝の首。

 距離を測る。獲るまで数秒で足りる。

 私は静かに剣を抜く。

 皇帝に向かって、捧げるようにそれを差し出した。



「お返しします」



 《黄金》の瞳が蔑むように私を見た。





   ◇   ◇   ◇   ◇





「本当にここでいいの?」



 公爵令嬢は確かめるように私に尋ねる。



「ええ。ずっとここに来たかった」



 神鳥の背から降り、私は広がる森を眺める。

 間違いない。イシュタの森。



「弔いがしたいと思っていた」


「ここがイシュタ族の……?」


「そう。私の過去を調べたのね」


「ごめんなさい。必要なことだと思ったから」


「別にいいわ」



 イシュタ族のことを調べたうえで、私に皇帝を殺す気がなかったと見抜いたらしい。

 どうやってその結論にたどり着いたのか。

 理解できない。できそうにない。

 それでも──



「ありがとう」



 公爵令嬢は驚いたようだった。



「あ、あなたにお礼を言われるなんて」


「安心して。二度と言わない」



 ……恩義には礼節を。

 私は口の中で小さく呟く。



「弔いを終えたら、どうするのですか?」



 飛び立つ直前に彼女は聞いた。

 私は答える。



「さあ」



 わかるはずもない。

 私をこんな状態にした張本人に聞かれても、答えられない。

 ただ──



「とりあえず生きる。それだけよ」



 ここから始めるのも悪くない。

 そう、思いはじめていた。



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