第145話 前々世……ですって?




 風の中にいました。

 真綿にくるまれているような、心地のいい風。

 いつの間にか閉じていた瞼を開くと、真っ白なものがありました。



「……?」



 目の前で揺れるそれに手で触れます。

 白くて、すべすべで、ふわっとしている──

 その正体が巨大な羽だとわかるまで、かなりの時間を要しました。

 ゆっくりと視線を上げます。



「と、り?」



 鳥でした。

 それも、ありえないほど大きな鳥。

 純白の翼が左右に広がり、立派な尾羽がぴんと真っすぐ伸びてます。こんもりとした首元に、ごく淡い薄紅色の嘴。水晶のように美しい空色の瞳。

 ぱらぱらと何か地面に落ちる音がしたと思うと、枝のようなものが散らばっていました。

 ……矢。

 私たちを貫くはずだったもの。

 純白の巨鳥は翼を折りたたみ、優美な仕草で辺りを見渡しました。

 静まり返った広場と、



「神鳥……?」



 誰かの呟く声。



「神鳥、フォルセイン……!」



 その呟きが民衆へ、貴族へ、兵士へと伝播し、彼らは次々と地面に膝をつきました。そして祈りの言葉を唱えはじめます。

 フォルセイン?

 この鳥が……?

 私は間近にいる巨鳥を呆然と見上げました。

 巨鳥は視線に気づいたように振り返り、目を細めます。



「よかった……」



 え?

 驚いて周囲を見ます。

 顔を上げた者はいません。

 聞こえて……いないのでしょうか?

 だって──鳥が──喋っ──



「鳥が喋ってはいけませんか?」


「!」


「シルバスティンでも、そんなことをおっしゃっていましたね」


「フィル?」



 ぽかんと呟きます。

 間違いない。フィルの声。

 え、え?

 混乱する私に向かって巨鳥は首をかしげ、



「少しご説明しましょう」



 そう言うと、周りの景色がぱっと白くなりました。



「……?」



 白。

 真っ白な空間に立っています。

 振り返ってもお兄様はいません。広場も、処刑台もない。どこまでも続く白い空間。

 正面にフィルが立っていました。

 白いマントに涼やかな顔立ちの若い騎士。



「フィル……よね?」


「はい。王女が私の顔をお忘れでなければ」



 フィルは微笑み、自分の胸に手を当てます。



「以前、私にお尋ねになったことがありましたね。私が男なのか、それとも女なのかと」



 そういえば、そんなことを聞いたような気がします。



「その質問にお答えすると、実はどちらでもありません。私には性別というものがありませんので」


「そう、なの?」


「はい」


「神の御遣いだから?」


「ふふ。私は少し特別な霊獣というだけです。王家と契約を結び、時々力を貸しています。今回のように」


「それなら!」



 私は思わず叫んでいました。



「もっと早く助けてくれてもよかったじゃない……!」


「申し訳ありません。始祖と結んだ契約により、私が力を貸すには複雑な条件が必要なのです。それをすべてご説明するのは難しいのですが……たとえば王家の者が命をかけて誰かを守ろうとすること。それから、できるだけ多くの人が祈りを捧げること」



 命がけで誰かを守る……?

 私ははっとしてフィルに尋ねました。



「じゃあ、ティルトが暗殺されそうになったときも……?」


「はい。部分的に条件を満たしていましたので、あなたの元に駆けつけることができました」



 あのとき、フィルは窓の外から寝室に飛び込んできました。

 アイラのようにすぐれた身体能力を持っているのでなければ、それこそ翼でも生えていない限り不可能なことです。まさか本当に翼が生えていたなんて……。



「その様子だと、昔お会いしたときのことは少しも覚えていらっしゃらないようですね」


「え?」


「ずっと昔です」


「………」



 フィルの声。確かに聞き覚えがあると思っていました。

 記憶のどこかに引っかかる、淡い欠片のようななつかしさ。



「もしかして、赤ん坊のときに会ったことがあるの?」


「ええ。そのときもお会いしています。でも、もっと前です」


「もっと前?」



 赤ん坊のときより前ですって?



「まさか前世とか言わないでしょうね」


「惜しいですね」


「?」


「前々世。ですよ」


「……………⁉」



 今度こそ言葉を失います。



「前々世のあなたは今と同じフラウ=フレイムローズでした」


「!」


「ノイン殿が処刑され、絶望したあなたはフォルセイン王国を扇動し、帝国との戦争を引き起こした」



 それは──

 エリシャが話していた物語の続き。



「戦いの末に敗れ、あなたは死の淵に立ちました。そのとき私に願ったのです。『過去を変えたい』と」


「過去を──」


「はい。あなたが願ったのは、過去に戻ってやり直し、ノイン殿を救うことでした。私は忠告しました。過去を変えることはできない。たとえ戻っても、また同じことを繰り返すだけだと。するとあなたは言いました。『どうしたら過去を変えられるか』。私は少し考えてから言いました。『あなたの魂を割って、無数の並行世界に送ることができます。その中のひとつが何かしらの手がかりを携え、この世界に戻ってくることができれば、過去を変えられるかもしれない。ただ、可能性は限りなく無に等しいでしょう』と」


「それで私は……?」


「悩んでおられました」



 フィルはそう言い、視線を横に向けました。

 そちらを見ると、真っ白だった空間が歪み、ゆらゆらと炎が揺れていました。

 灼けつく大地が見えます。そこに倒れ伏している誰かの姿も。

 倒れているのは私でした。

 傷ついた巨鳥がそばに寄り添い、私の髪をやさしくついばんでいます。



『もう、一度……』



 倒れた私が言いました。



『お兄様が死ぬのを見るのは……耐え、られない……』



 口から血を吐き出し、かすれた声で呟きます。



『………それでも、私は……』


『やり直したい!』



 瞬間、凛とした声が響きます。

 瀕死の私ではありません。

 突然現れた少女が私に駆け寄り、ひざまずいて叫びました。



『私も、やり直したい!』



 私の手を握り、巨鳥を見上げる少女の頬は涙で濡れています。



『お願いフォルセイン! 私の魂も一緒に割って! 無数の世界にばらまいて! もしも過去を変えられたら、こんな戦いは起こらないんでしょう? それに……』



 紫の髪を振り乱し、少女は力を振り絞るように叫びました。



『そうしたら私たち、友達になれるかもしれない!』



 ふっ……

 少女の姿が消えます。

 倒れ伏した私も。傷ついた巨鳥も。

 過去の──あるいは未来の──光景が消え去ったとき、私は顔を覆っていました。



「我が王女」



 手の甲で涙をぬぐいます。

 けれど、ぬぐってもぬぐっても止まりません。

 フィルが私をやさしく抱きしめました。



「よく……ここまで、戻ってきましたね」



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