第144話 これが最後のページになる




 トン、トン……

 テリオスは頬杖をつき、肘置きを指で叩きました。



「余にも慈悲はある」



 トン、トン、トン……



「余にも、慈悲はある」



 繰り返しながら、脇に控える大柄な騎士を一瞥します。



「アイゼン」


「はっ! 陛下」



 アイゼン=ブラックウィンド。アイラの兄。今は彼が近衛騎士団長です。



「百数えよ」


「……百を」


「数え終えたら、弓隊を前に出し──」



 テリオスは無表情のまま、事もなげに言いました。



「処刑台にいる者を全員射殺しろ」


「────‼」



 アイゼンが息を呑みます。



「陛下!」


「どうかお待ちを……!」



 声を上げてバタバタと立ち上がったのは《紫苑》。それに《深緑》、《紺碧》。

 必死の形相で弁護しようとする父親たちに、テリオスは冷めた目を向けます。



「ああ、わかっておる。だから『百数えよ』と言ったのだ。その間に処刑台を降りたなら、追って咎めることはせぬ。だが降りなければ、その者も反逆罪とみなして刑を執行する。ただそれだけだ」


「で、では……今すぐに連れ戻してまいります!」


「まあ待て」



 飛び出そうとするエリシャの父を、テリオスは落ち着いた声で制止しました。



「無理やり引きずり下ろすこともなかろう。己で選ばせてやるがよい」



 父親は声を失って立ち尽くしました。

 視線を戻し、テリオスは《黄金》の瞳で私たちを見下ろします。



「感謝しよう。フラウ=フレイムローズ。実に面白い話であった。褒美として、存分に別れを惜しむがよい」


「………」



 最後の賭けでした。

 帝国中に宣伝された大々的な公開処刑。テリオスがこの機に民心をつかみ、権力を集中させようとしているのは明らか。

 だから、それを利用しようと思ったのです。処刑台に上がって派手に立ち回り、民衆を味方につける。そうして情けをかけるほうが得だと、テリオスが考えるほうに賭けた。

 かえってその心を頑なにさせ、歯車を逆に回転させる可能性も承知していました。



「アイゼン。数えよ」



 テリオスに促され、アイゼンは一瞬アイラのほうを見ました。彼女は最初から静かに目を閉じています。何が起ころうと、自分にはもう関係ないとでも言うように。

 ぐっと歯を食いしばり、アイゼンは痛みに耐えるようにきつく目を閉じます。



「……… 一!」



 さて──ここまでですね。

 私はふぅっと息を吐き、隣のエリシャを見ました。

 それから周囲に集まった全員を。



「みなさん、降りてください」



 沈黙が降ります。

 それから、ティルトがかすれた声で言いました。



「フラウは……」


「………」


「残るのですか?」


「はい」


「どうしても?」


「ティルト。勝手に城を抜け出してごめんなさい。あなたに知られたら、きっと止められると思ったの。どうか許してね。そしてこの先も賢く、やさしい、よき領主でいてください」



 ティルトの水銀のような瞳がゆらゆらと揺れ、涙の粒がぽとりと落ちました。

 彼の震える小さな肩に手を置き、ニーナもまた私を見つめます。



「フラウ。フィオナお姉様に会ったら伝えてくれるかしら。あなたの娘を守れなくて……ごめんなさいと」


「ええ。もし母に会えたら、叔母上は考えうる限りあらゆることをしてくださったと伝えます」



 ニーナはうなずき、泣きじゃくるティルトの手を引いて処刑台を降りました。



「フィー。ゼト。あなたたちもありがとう」


「フラウさん……!」



 フィーが声を詰まらせながら私を抱きしめます。



「フラウさん……ローザ……。あ、あなたが、愛することを恐れるなと、教えてくれました。あなたがいなければ、私は……ずっと逃げたままだった」


「そうね。フィーお嬢様、あなたは本当に困った人でした。でも、もう逃げたりしませんね?」


「ええ。誓うわ。あなたに誓う」



 ゼトを見ると、彼は黙ってしっかりとうなずきました。フィーをやさしく抱き寄せ、二人支え合うように降りていきます。



「本当は」



 エリオットが泣き笑いのような顔で言いました。



「君を無理やり抱えて連れていきたいんだけど。そんなことをしたら、たぶん一生僕を許してくれないだろうね」


「そうね。あなたは私のことをよくわかっているから、そんなことしないって信じてるけど」


「……そうかい?」


「そうよ」


「うん。それじゃ、フラウ」


「ええ。それじゃ、エリオット」



 微笑を残し、彼もまた階段へ向かいました。

 残るは二人。

 私は深呼吸して、



「………エリシャ」



 向かい合います。

 彼女は固く口を結び、足元を見つめていました。



「エリシャ。あなたも降りて」



 そう言って腕に触れると、エリシャは弾かれたようにこちらを向き、



「降りない!」



 顔を近づけて真正面から叫びました。



「私は降りない!」


「だめよ」


「いや!」


「エリシャ」


「いやだっ……いや……絶対降りないっ……」


「エリシャ」


「お願いよ、フラウちゃん……!」


「……エリシャ」


「フラウちゃ……渚せんぱ……私……最後まで……い……一緒に……!」



 泣き崩れる彼女の頬をそっと撫でます。

 リオンを見ると、彼も目の周りまで真っ赤になっていました。



「リオン」


「姉様」


「最後のお願い、聞いてくれる?」



 私はにこりと笑います。



「親友なの。だから……お願い」



 リオンは一瞬顔を伏せたあと、再び上げてうなずきました。



「エリシャさん。僕と行きましょう」


「っ……リオン……くん」



 エリシャが差し出された手を呆然と見つめます。



「わ、た、し……」


「僕も同じです。ここを降りたくありません。でも、これが姉様の願いだから」


「……っ」


「姉様に……兄上と残りの時間を過ごさせてあげたいんです」



 しゃくりあげ、鼻をすすりながら、エリシャは震える手をリオンに伸ばしました。

 リオンがその手を取り、握りしめます。

 泣きながら振り返る二人を抱きしめ、その背中をそっと押しました。

 二人が処刑台を降りるころ、アイゼンの叫ぶカウントは残り三十を切っていました。

 迷わずお兄様のそばへ行きます。

 お兄様は落ち着いていました。少し頬がやつれていらっしゃいますが、それを除けばいつもと変わりありません。

 そして、私に向かって一言。



「降りろ」



 それから、ふっと苦笑します。



「……と言っても無駄か」


「はい。お兄様」



 私は微笑んで、ぴたりとそばに寄り添いました。



「こうなると知っていたのだろう」


「はい」



 ずっと決めていました。

 お兄様の処刑を全力で回避する。

 けれど、どうしても止められなかったら──

 そこを最後のページにする。と。

 前世で処刑シーンを読み、私はその続きを拒否しました。

 今世でもそれは変わりません。お兄様がいなくなったあとの世界など、私には意味がありませんから。

 だから、ここで終わり。

 お兄様のそばで終わりを迎えられるなんて、私には贅沢すぎるくらいです。



「お兄様。私たちはきっと、帝国の歴史に悪人として刻まれるでしょうね。皇帝陛下に逆らって殺された極悪兄妹、と」



 お兄様は少し考えるような顔をして、



「……それも悪くない」



 やさしく呟きました。

 弓隊が処刑台の前に並び、人々が悲鳴と罵声を上げる中、号令によって矢がつがえられます。



「いま降りれば間に合う!」



 アイゼンが叫びました。

 私は首を振って応えます。

 上に伸ばした手をわずかに震わせてから、アイゼンはその手を振り下ろしました。

 一斉に矢が放たれます。





 さようなら。私の物語。





 そのとき、声がしました。

 風のように涼やかで、やわらかい声が。



「いいえ。まだ終わりではありませんよ」



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