第126話 誰がクソ雑魚悪役令嬢ですって?
──分岐はどこにあった?
泥だらけのドレスを引きずって歩いている私を、外で待機していたフレイムローズ家の侍従が見つけ、屋敷へ連れ帰りました。
忽然と消えた当主。
皇太子と婚約するはずだったのに戻ってきた妹。
屋敷は混乱に包まれました。
制御できない震えに襲われる私は、まともに話すこともままなりません。そんな私をミアは黙って強く抱きしめました。それでも震えは止まらず、私の歯はカチカチと鳴り続けました。
そこからの記憶は飛び飛びになっています。
暗闇。悪夢。不穏なざわめき。アシュリーの金切り声。唇をこじ開けて水を飲ませようとするミアのこわばった指。何かが割れる音。怒鳴り声。壁にぶつかる音。なだめようとするリオンの声。静寂。すすり泣き。また静寂。暗闇。
──分岐はどこにあった?
邸内の使用人が日ごと減っていくのがわかりました。
ひとり、またひとり。荷物を抱えた人影が遠ざかっていくのがカーテンの隙間から見えます。屋敷の調度品らしきものを勝手に持ち出す姿もあります。
リオンは何度も私の枕元を訪れました。婚約式で何があったか知りたがっていましたが、私の口は縫いとめられたように開きません。
「いずれ僕たちも捕まって、取り調べを受けるかもしれません」
途方に暮れた声。
「そうなったら、この家はもう……」
──分岐はどこにあった?
何度も、何度も。
過去の出来事を思い返しました。
どうすればよかった? 何がいけなかった?
リオンの告発は阻止した。でも、アイラの偽証を止められなかった。
『あなたが悪い』
あの女を殺しておけばよかった?
邪魔になる人間を殺して、全員殺して……。
それとも……。
『あなたが悪い』
私が死んでいればよかった……?
私さえいなければ、リオンは苦しまない。アイラも嫉妬しない。
もしかして──私が──お兄様を──
「──────ウちゃん。フラウちゃん!」
瞬きします。
目の前にエリシャがいました。
私の両肩をつかんで揺さぶっています。
「フラウちゃん!」
「…………エ、ぃ、シャ」
しわがれた老人のような声が出ました。
「ああ、もう! やっと返事した!」
ぐむむっと唇を曲げながらエリシャが言います。
「もう何日もちゃんと食べてないって、ミアさんが。何か食べられそう? 重湯は飲める?」
ぼんやり見返す私を、エリシャの手がやさしく包み込みました。
「ごめんね。ごめん……! もっと早く来たかった。クソパパのせいでなかなか抜け出せなくて……! あんな家、もう二度と帰ってやらない! フラウちゃん。ねえ、フラウちゃん。フラウちゃん、返事して……?」
温かい手。
そのぬくもりに導かれるように、暗くよどんだ泥の中をさまよっていた意識が浮上していくのを感じます。とろりとした日差しのまばゆさ。空気の匂い。
ああ。ここが。
現実。
固くなった舌をゆっくりと動かし、
「……………死にたい」
私は言いました。
「見たく……ない……」
藤色の瞳が目の前できゅっと縮みます。
「あの場面を……この目で、見る、くらい……なら、もう」
バチンッ‼
言い終える前に張り飛ばされました。
倒れかけたところを無理やり引き起こされます。
「エリシャ様!」
ミアの悲鳴。
エリシャはふぅふぅと息を荒げ、淡い桃色の唇を大きく開いて、
「ふざっっっっけんなぁ‼」
叩きつけるように叫びました。
「あんたが! それを! 言うな!」
叫びとともに降り注ぐ藤色の髪。
「私たちは、私たちだけはっ、それを言っちゃだめなんだよ! 私たちはズルをした。嘘みたいな奇跡を起こして、この世界に来た……本来なら持つはずのない知識を持って!」
「………」
「これって何のため? 大好きな人を救うためじゃないって言うなら、一体何だって言うのよ⁉」
「………」
「聞こえてる? 渚先輩! 雨宮渚! あんたのノイン様への愛はそんなもんか!」
「………」
「私の大好きなフラウ=フレイムローズはっ……! こんなところで諦めるような、クソ雑魚悪役令嬢なんかじゃない‼」
「……………………………誰が」
手を伸ばし、ぼろぼろと涙をこぼす彼女の頬に触れ、
「クソ雑魚悪役令嬢ですって?」
私は静かな声で言いました。
はっとする彼女から手を離します。
それから、自分で自分の頬を張りました。
「え、フラウちゃ……え⁉」
パンッ! パンッ!
両手を使って力の限り頬を叩き、痺れるような痛みを味わいます。
手で顔を挟んだまま、私は深く息を吐きました。
「ありがとうございます。目が覚めました」
低く呟きます。
「あの場面を……この目で見るのが怖かった。あれを目にしてしまったら、私はきっと壊れてしまう」
だから、逃げようとした。
あの冬の処刑場から。
残酷な運命から。
──でも。
「よく考えたら、私が壊れる? そんなの、どうってことはありませんね」
お兄様が死んでしまうことに比べたら。
はっきり言ってミジンコです。ミジンコ以下です。
「もう逃げません」
物語は終わっていない。
どんな分岐をたどろうと、ここはまだ『終わり』ではない。
たとえわずかな望みでも──最後の最後まで食らいつく。
「お兄様を……助けにいきます」
「うんっ!」
エリシャが力強くうなずいたそのとき、
「────そのお話。当然、私たちも混ぜていただけるわね?」
唐突に別の声が入ってきました。
エリシャと二人で戸口を振り向きます。
「まったく、屋敷中に大声が響いていましたよ」
そこにいたのは中年の女性でした。ふくよかな体を銀のドレスに包み、やれやれと苦笑を浮かべています。
「よい友人を持ちましたね。フラウ」
「叔母上……⁉」
ニーナ=シルバスティン。
シルバスティン領にいるはずの彼女がなぜここに?
いえ、彼女だけではありません。
続けてさらに二人が部屋に入ってきます。
「あなたに落ち込む姿は似合いませんよ、ローザ。……あ。フ、フラウさん! どうしましょう、恩人の名前を間違えてしまいました……!」
「別にどっちでもいいだろ。とにかく、俺たちも話に入れてもらうぞ。否とは言わせん」
フィー。それにゼト。
そして最後に、ニーナの陰で見えなかったらしい小さな影が姿を見せます。
天使のように無垢で愛らしい、それでいて利発そうなティルト。
「フラウ。今度は、僕たちがあなたを助ける番です」
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