第125話 もう、いらない




 気がつくと、ベッドの天蓋を見上げていました。

 いつの間に謁見の間を出たのでしょうか。

 頭がぼんやりします。

 誰かに引っ張られて、ここまで来たような……。

 そうだ。

 お兄様は。

 お兄様を──

 助けなくては。



「殿下! なりません」



 少し離れた場所で大声がしました。



「その者は逆賊の妹ですぞ!」


「うるさい! いいか、父上に悟られるなよ。わかったら出ていけ!」



 乱暴に扉を閉める音。

 それから急に、私の視界に《黄金》の瞳が現れました。思わず体がビクッと震えます。

 一瞬テリオスに見えました──が、ユリアスです。

 彼は息を荒げ、見開いた目で扉を睨みつけていました。



「……渡さぬぞ……」



 低い唸り声。



「私のものだ……たとえ父上でも……私から奪うことなど……許さない」



 うわごとのように呟いたあと、ふっと私を見ます。



「フラウ。正気づいたのだな」


「殿下……」


「安心しろ。そなたのことは私が守る」



 脱力した体を抱きしめられます。

 ぐらぐらする頭をユリアスの肩にもたせかけ、考えることはひとつでした。

 お兄様を助ける。

 そのために──

 この男を利用しなければ。



「助けて、ください……」


「ああ、わかっている。誰にもそなたを傷つけさせはしない。私たちが一緒にいられる方法を考えよう」



 ……違う。そんなことはどうでもいい。

 ユリアスの腕の中でもがくように身じろぎし、胸に手をつきます。



「殿下の力を……お貸しください。お兄様を助けてください。私を愛してくださるならば、どうか……!」



 お兄様を救うためなら、喜んでこの命を捧げます。

 どんな苦難にも耐えてみせます。

 お兄様が生きていてくださるのならば、二度と会えなくたって構わない。

 だから。



「お願いです……‼」



 声を絞り出し、首元に額を押しつけます。



「フラウ……」



 彼は私の髪をやさしく撫で、憐れむように言いました。



「それは無理だ」


「……っ」


「そなたの兄は、父上を殺そうとした」


「違います! あれは──」


「わかっていないな。父上に『疑われた』時点で、公の身は終わりなのだ。救う手立てはない。たとえ私であってもな……残念だが」



 目の前が暗くざらつきます。

 茫然とする私の耳に、ユリアスの声が重く響きました。



「諦めろ」



 …………嫌。

 できない。



「今は私とそなたのことを考えよう。何かよい方法はないものか……」



 うるさい。

 黙れ。

 お兄様を助けてくれないなら、もうあなたなんかいらない。



「そうだ」



 ふいに肩をつかまれ、どさりとベッドに押し倒されました。

 逆光になったユリアスの顔。

 テリオスと同じ無機質な瞳。



「子を成そう!」



 その瞳をギラつかせ、ユリアスは明るく言いました。



「そなたが私の子を宿せば、父上も簡単には手が出せまい。《黄金》の血を残すためなら、廷臣も味方についてくれるだろう」



 話しながら私の体をまさぐる手に、強い吐き気を覚えます。



「我ながらよい策だ。そう思わないか? 案ずることはない。子ができるまで、私の部屋に隠れて暮らすといい。他の者には指一本触れさせぬ」


「………めて……」


「そなたは私のものだ。誰にも渡さぬ。誰にも。誰にも……!」



 ドレスの中にユリアスの手が入りこんできた瞬間、自分の中で何かが弾けるのを感じました。



「触らないで‼」



 爪が皮膚をえぐる感触。

 ユリアスが悲鳴を上げて飛びのきました。



「あっ……ぐ……!」



 ユリアスの頬からぽたぽたと血が滴り落ちます。

 はっと我に返り、私は血のついた爪を抱えて床に滑り降りました。



「申し訳ありません!」



 足元に這いつくばります。



「も、もう二度とこのようなことはいたしません。殿下の好きになさってください。ですから、どうか……お兄様を」



 こらえきれず、涙と呻き声がこぼれました。



「お兄様を助けて……ッ!」



 ユリアスは頬を手で押さえ、大きく見開いた目でこちらを見つめています。

 その口から、



「…………………そういうことか」



 かすれた声が漏れました。

 かと思えばいきなり笑い出します。顔をくしゃくしゃに歪め、ユリアスは天井を振り仰いで狂ったように笑いました。



「殿……下……?」



 ひとしきり笑い続けたあと、天井を仰いだまま手で顔を覆い、長く息をつきます。



「さぞかし」



 呟きながらゆらりと前を向き、



「私は道化であったろうなぁ?」



 ユリアスはひどく歪んだ笑みを浮かべました。



「………な、にを」


「お前たちはいつも、心の中で私を嘲笑っていたのだろう?」


「違います!」


「もうよい。これ以上は聞きたくもない」



 ユリアスが天井からつり下がった紐を引くと、すぐに近衛兵が突入してきました。



「その女を王宮の外に放り出せ。今すぐに」


「はっ!」



 兵士が私の腕をつかみます。引きずられながら、私は必死にユリアスを振り返りました。



「殿下! お願いです! 殿下!」



 ユリアスは冷然と私を見返し、



「二度と私の前に姿を見せるな」



 その言葉を最後に、目の前で扉が閉じられました。



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