第122話 この夜を忘れない
沈黙のあと、お兄様は困ったように目を伏せました。
「フラウ。それは……」
「荒唐無稽ですか?」
「そうは言わないが、いくらお前でも難しいだろう。皇后を亡くしたテリオスが心を閉ざしてずいぶん経つ。息子のように扱いやすい人物でもない。第一、お前にとって義理の父となる男だ」
だからこそ──です。
義理の娘になった私に手を出せば、帝国法で死刑。少なくとも譲位に追い込むことができる。私を被害者だと思い込ませ、ユリアスに庇護を求めることも不可能ではありません。
「昔、陛下は私の母に恋をしていました」
「………」
「勝算はあります」
「……だめだ」
「お願いです。私を信じてください」
「信じないわけではない。だが、危険すぎる。お前を……不幸にしたくはない」
「では、幸せにしてください」
お兄様の袖をぎゅっとつかみます。
「本当の願いは……もう言いませんから」
風が吹き、バラの花びらを散らしました。
シルバスティンから戻ったあと、この庭で甘美な夢を見ました。お兄様の膝に頭を載せ、幼い日々に思いを馳せながら。
でも、その夢は叶わない。
「だからせめて、この願いを聞いてください。幸せになれる道を私に選ばせてください。私に……生きる意味を与えてください」
絞り出すように言い、袖を離します。
手の甲に赤い花びらがついていました。体の震えに合わせてかすかに揺れています。見下ろしていると、お兄様の手がそこにかぶさりました。
「それがお前の幸せ、か」
「………」
「三年」
「!」
顔を上げると、お兄様が苦い笑みを浮かべています。
「三年だ。それ以上は待てない」
「ありがとうございます! お兄様!」
思わずその手を握りしめ、
「っ、すみません……!」
ぱっと離します。
「? どうした?」
「いえ……」
両手を上げながらもごもごと呟きます。
「気持ち悪くありませんか……?」
「?」
「だって……私は、お兄様の知っているフラウじゃない、ですし……」
異世界から転生した魂が妹の体に宿っている──
そんなことを急に聞かされて、現実味はなくとも気味が悪いに決まっています。
暗殺を思いとどまっていただくためとはいえ、なんということを打ち明けてしまったのでしょう……!
「……そのことだが」
考え込むように目を細めるお兄様。
「お前の中にいるのは別世界の人間だけなのか?」
「ええと、なんというか……フラウ=フレイムローズとしての魂や記憶があり、そこに途中から雨宮渚が合流して……混ざりあった、といいますか……」
「だとすれば、その雨宮渚はフラウに似ているようだな」
「えっ?」
「確かにお前は行動的になった。が、違う人間になったという感じはない。私にとってお前はお前のままだ。それでいておそらく……より魅力的になった。というのが正しいのだろうな」
「ッ……? ………ッッ⁉」
「どうかしたか?」
「お兄様こそ! そんな……嘘までつかなくても、私はっ……」
「嘘はつかない。お前には」
やさしく笑うお兄様。
ああ。もう。
きっと耳まで赤くなっていますね。
顔を覆いたくなるのを必死にこらえながら、私は覚悟を決めました。どうせなら行けるところまで行ってしまおうと。
「で、では──」
二人きりで過ごす機会は当分ない。次は数年後になるかもしれません。
「もうひとつお願いがあります」
大きく息を吸って言います。
「す……少しの間だけでいいので、目を閉じて、動かないでいただけますか……?」
お兄様は私の顔をまじまじと見たあと、黙って瞼を閉じました。
あ……。
心臓が痛い。
ズキズキして、ふわふわして。
現実じゃないような。
でも。
ここにいる。すぐそこに。
私だけのお兄様が。
「………」
手を伸ばし、指先で顔をなぞります。
額。こめかみ。瞼。鼻筋。頬。唇。あたたかくて、なめらかで、美しい。その形を自分の指に刻み込みます。
それから──
今度は唇で同じことをしました。
額。こめかみ。瞼。鼻筋。頬。ひとつひとつ刻印するように口づけて、最後に少し迷ってから、そっと唇を重ねます。
世界から音が消えました。
体が痺れて、頭の中がぼうっとします。
不安になって唇を離し、お兄様がそこにいることを確かめました。ほっとしてもう一度口づけます。それでもまた不安になり、同じことを繰り返そうとして、
「あ」
手首をつかまれました。
いつの間にかお兄様が目を開けています。
「……あ、の。まだ、動かないで」
言いかけた唇に指を当て、お兄様はゆっくりと私をうしろへ倒しました。
「無理を言うな」
囁く声。
月が隠れ、お兄様の赤い瞳だけが輝いています。その輝きが降りてくるのを見て、私は瞼を閉じました。息をするのもやめました。
この夜を忘れない。
この先、そばを離れても、王宮で暮らしても、長い間会えなくても、結婚しても、子を産んでも、歳をとっても、死んでも、もう一度生まれ変わっても。
私はこの夜を忘れない。
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