第120話 ごめんなさい、お兄様
王宮から遣いが訪れ、屋敷の中がにわかに慌ただしくなりました。
私とユリアスの婚約の日取りが決まったのです。
再び膨大な嫁入り道具が準備され、新しいドレスも何十着と運び込まれました。私はその中から一番気に入った淡い水色のドレスを選び、その夜に身に着けました。
「世界一美しゅうございますよ。お嬢様」
ミアが感慨深げに私の髪を梳ります。
私は鏡の中の自分を見つめました。
転生して初めて身支度した夜も、こんなふうに鏡の中を見つめたのを覚えています。あのときと同じくらい、今も胸が高鳴っています。
髪が結い終わり、ミアがそっと椅子を引きました。長いドレスの裾を持って立ち上がります。
これがきっと──
最後の家族晩餐会。
少なくとも、婚約前に家族と過ごすのは最後になるでしょう。
広々とした食堂に入ると、すでにリオンとアシュリーが着席していました。
「学院から戻っていたのね。リオン」
「はい、姉様。特別に外泊許可がいただけたので」
リオンは青を基調とした礼服に校章をつけています。学院の礼装でしょう。
「アシュリーお姉様も。ご一緒できてうれしいですわ」
「……べ、別に。あんたのために来たわけじゃないから」
ツンと顔をそらす真っ赤なドレス姿のアシュリー。しばらく引きこもっていたせいか落ち着かないご様子です。
そして──
「そろっているようだな」
涼やかな声とともに、お兄様がいらっしゃいました。
今宵のお兄様は艶やかな夜会服姿。赤い前髪を撫でつけて、危ういほどの色気を漂わせていらっしゃいます。
「聞いていると思うが、改めてフラウと殿下の婚約日が決まった」
飲み物が運ばれて全員が盃を手にすると、お兄様はいつもと変わらぬ口調で切り出しました。
「シルバスティン家、エメル家、それにフォルセイン王家との調整も済んだ。今はどの家も納得している。フラウ、お前が動いてくれたおかげだ」
「!」
そんなふうに褒められると思っていませんでしたので、手にした盃からワインがこぼれそうになります。
「わ……私は何も。周りが助けてくれたおかげです」
謙遜ではありません。
本当に、一人では何もできませんでした。
シルバスティン家ではティルトやエリオットたちが──
エメル家ではネリやゼトが──
手を貸してくれたからこそ、ここまでたどり着くことができたのです。
「言いたいことはわかる」
お兄様はかすかに笑みを浮かべました。
「だが、周囲の助けを得るのは容易なことではない。お前の人徳がそうさせたのだろう。そして、そんなお前こそ次期皇后にふさわしい」
そう言ってグラスを持ち上げます。
「フラウの婚約を祝して」
リオンも笑顔でグラスを掲げました。
「おめでとうございます、姉様。万が一殿下が浮気するようなことがあれば、いつでもうちに帰ってきてくださいね」
驚いたことにアシュリーまでグラスを持ち上げます。
「悔しいけど、あんたの勝ちよ。でも、これで終わりだと思わないでよね。絶対にあんたより幸せになってやるんだから。……おめでとう」
こんな夜が来るなんて思いませんでした。
この屋敷で唯一 《真紅》 の血を引かない私が、家族全員に祝福されるなんて……。
そっと自分のグラスを掲げ、
「ありがとう、ございます」
私は笑顔で言いました。
私とお兄様はバラの庭園にいました。
晩餐会のあと二人だけで話がしたい、と手紙をしたためておいたのです。
ついひと月前に一緒に過ごすお誘いを断ってしまったばかりですし、お忙しいお兄様には無理かもしれないと思っていましたが。
それでも──来てくださいました。
「少し風が出てきたな」
そう言って、脱いだ上着を肩にかけてくださいます。
えっと……。
なんだかもう。
今すぐに死んでもよいくらい幸せなのですが。
それなのに、私は──
「お兄様」
「ん?」
「お話、しなければならないことがあります」
私の表情を見たお兄様が怪訝そうに眉をひそめます。
でも、先をせかすようなことはなさいませんでした。黙って私を見つめています。
……ありがとうございます。お兄様。
「私」
ずっと言えなかったことがあります。
言えるはずがないと。
正直、今も怖いです。膝が震えています。
でも──
言わなければ。
この機会を逃したら、きっと死ぬまで言えない。
「私は」
深く息を吸い込みます。
バラと、お兄様の香りがしました。
涙が浮かびそうになって目を閉じ、震えながら言葉を吐き出しました。
「違うんです」
ごめんなさい。
「私は、お兄様の知っているフラウではありません。別の世界から転生した魂がこの肉体に宿っています」
ごめんなさい。
ずっと。
「その魂の、名前は──」
あなたに嘘をついてきました。
「雨宮渚と申します」
本当にごめんなさい。
……愛しいノイン様。
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