第118話 悪役令嬢は一人でいい
「……そろそろ帰らないと」
鐘の音が聞こえます。
席を立とうとすると、リオンが慌ててノートに何か書きつけました。
「詩を習ったんです」
さらさらとペンを走らせ、ページを破ってこちらに差し出します。
「? フォルセイン語?」
「はい! 外国文学の授業で」
「『あなたの髪に真白の羽根 私の唇に蒼天の音色 ……』ふぅん。恋愛詩みたいね」
「フォルセインではプロポーズのときにこの詩を贈るそうですよ」
「へえ。プロポ──」
思わずむせそうなりながら手を引っ込めます。
「あれ? 姉様?」
「何しれっと渡そうとしてるんですか」
「えー。だって」
「だってじゃありません。こういうことは私より大切な人が見つかってからにしなさい」
「見つからないですよ。そんな人」
「見つかるかもしれないし、見つからないかもしれないでしょう」
「無責任だぁ」
咳払いして立ち上がります。
「きっと私の友人ならこう言うでしょうね。『未来のことなんてわからない。だからおもしろいんだ』って」
「友人……?」
「ええ」
「姉様、お友達がいたんですね」
「そろそろ怒りますよ」
「ふふ。僕、姉様に怒られるの大好きです」
……まったく。
つける薬がないとはこのことですね。
リオンと別れて出口へ急ぎます。
陽は沈みかけ、落ちかかる校舎の影が濃さを増しています。エリシャがうまく門衛を引き留めてくれているといいのですが。
薄暗い道を早足に抜けようとして、
「……っ!」
凍りつくような気配に立ち止まりました。
視界の端に映るベンチ。そこに黒髪の女が座っています。
「アイラ……?」
思わず小さく呟きます。
他に生徒の姿は見当たりません。そろそろ寮の門限だとリオンが言っていました。
……通り過ぎたほうがいい。
そう思いながら、私は足の向きを変えていました。
アイラは微動だにしません。何をするでもなく、人形のようにのっぺりした無表情でそこに佇んでいます。
辺りが暗く沈んでいく中、私は隣に腰を下ろしました。
──黒。
ありとあらゆる黒を凝縮したような瞳で、アイラはまっすぐ前を見つめています。まるで私の存在など気にも留めていないように。
その横顔に向かって言いました。
「シルバスティンで会いましたね」
途端、ぐるりと首が回ってこちらを見ました。一瞬前まで無表情だった顔にひどく歪んだ笑みを浮かべて。
「…………殺しておけばよかった」
鴉が羽根をこするような囁き。
思えば、シルバスティンの暗殺者もこんなふうに囁いていました。覆面越しのくぐもった声ではありましたが。
『あの方は………変わった』
『不要なものを切り捨てる。切り捨てなければ──』
『ほら。何も残らない』
午後の剣術試合で彼女を見たとき、真っ先にシルバスティンでの光景を思い出しました。
月光に照らされた細い体。人間離れした身のこなし。
そして──この殺気。
背中を斬られたすさまじい痛みを思い出し、じわりと汗が浮かぶのを感じます。
……怯えてはいけない。
唾を飲み込み、精一杯涼しげな顔で言います。
「もし私が死んでいたら、お兄様はどうなさったでしょうね?」
アイラは不愉快そうにさっと目をそらしました。
やはり。
彼女はお兄様の手駒。
ブラックウィンド家の令嬢がなぜお兄様に仕えているのでしょう。
でも、誕生パーティーの密会はこれで納得がいきます。きっとあのとき、彼女とお兄様は『仕事』の話をしていたのでしょう。
そしてその『仕事』こそ、彼女が『お兄様に差し出すもの』。
──皇帝の首です。
私がユリアスと結婚し、アイラが皇帝を暗殺する。おそらくお兄様にとって、私たちは野望を叶えるための両輪。
だからこそ同じ言葉──この世でもっとも悪い女──を与えられた。
「どうしてティルトを殺そうとしたの?」
とはいえ、お兄様はティルト暗殺を命じていないはず。
「……関係ない」
アイラは舌打ちするように呟きました。
「私に話しかけても無駄。あなたは早く《黄金》と結婚して子供を産めばいい」
「………」
ええ。きっとそうなのでしょう。
私たちは互いの役目を果たそうとしているだけ。
でも。
それでも──
「ごめんなさい」
私は彼女の顔をまっすぐ見つめて言いました。
「私は、あなたに誰も殺させません」
《漆黒》の瞳がわずかに揺れました。
私の思い描く筋書きにアイラの出番はない。悪役令嬢は一人でいい。
……そう決めてしまいましたので。
「それを伝えたかっただけです。では」
立ち上がってにこやかに一礼します。
アイラは何も言いませんでした。再び人形のように黙って虚空を見つめています。
ただ、去り際。
ほんのかすかに。
「………………くだらない」
背後で囁く声が聞こえたような気がしました。
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