第108話 《深緑》の落涙
たった一枚の紙きれ。
ただし彼にとっては、金塊の山よりはるかに価値のある一枚でしょう。
ゼトは署名欄のあたりをじっと睨みつけたあと、
「いらん」
そう言って、おもむろにその紙を破りました。
フィーが目を瞠ります。
「……な……なっ……」
しゃっくりのように喘ぐ彼女のの足元に、紙片がハラハラと舞い落ちます。
「なんで──どうしてよ⁉」
叫びとともにフィーが躍りかかりました。
めちゃくちゃに拳を振り回す彼女の手首をゼトが捕まえます。
「落ち着け」
「私がどんな思いであれを手に入れたかわからないの⁉」
「わかってる」
「やっと……自由になれたのにっ……」
「フィー」
まっすぐな目で彼女を見て、
「俺が一番ほしいのはお前だ」
まっすぐな声で彼は言いました。
「お前が好きだ」
フィーがぴたりと動きを止めます。
その目から涙があふれ、頬を伝って落ちました。
ゼトは困ったように幼馴染を見つめ、そっと身をかがめて頬に口づけました。
「あのときもこんなふうに泣いたな」
涙を吸い取った唇をぺろりと舐めながら言います。
「あの、とき?」
「昔だよ。大喧嘩したとき」
「私、泣いてなんか」
「覚えてないのか」
「………」
「俺をぽかぽか殴りながらぼろぼろ泣いてさ。それを見て、ペンダントくらいやればよかったと後悔したよ。あのときそうしていたら、お前もこんなふうに思いつめなくて済んだのかな」
物思うように目を細めたあと、彼は笑って首を振りました。
「過ぎたことは仕方ない。俺も、お前に『帝国人め』なんて悪態ついたことを忘れてたしな。同じ場所で育っても、考えてることや覚えてるものはこんなにも違う」
それから、ふっと真面目な顔つきになります。
「お前の罪悪感と同じように、俺はずっと劣等感を抱えて生きてきた。それこそ骨身に刻まれた歴史だ。公爵のほうがお前を幸せにできるんだと、自分に言い聞かせたりもした。……だが、それは逃げだと教えられたんだ。そのおかげでこうしてお前と向き合えた」
しゅん、とフィーが鼻を鳴らします。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだ?」
「あなたに……自由を押しつけようとした」
「いや。うれしかったよ。自由になることじゃなく、お前がそこまでしてくれたってことが。だが、代わりにお前を失うんじゃ意味がないんだ。俺はお前と一緒にいたい。自由になるときも、その先も」
「でも私たち、もう許婚じゃないのよ」
「それは……これから考えればいい」
「考える?」
「さ、作戦だよ。一緒に考えれば、何かうまい方法が見つかるかもしれないだろ? たぶん。まあ、おそらく……」
だんだん勢いを失っていくゼト。
それを見て、フィーがくすりと笑いました。
「なんだか真剣に悩んでいた私がバカみたい」
「それって遠回しに俺をバカにしてないか?」
「ふふ」
「おい⁉」
「私、ゼトのそういう前向きなところが好きよ」
「ッ‼」
「あなたの言う通り、これからは一緒に考えましょう。そうすれば気持ちや考えがすれ違うこともないわ」
「……だな」
「ねえ、ローザ。あなたも一緒に──」
ああ。
誠に申し訳ありませんが、私はもうそこにはいません。
「あら? どこに行ったのかしら」
途中でそうっと部屋を抜け出しましたので。
「そうだ。あいつのことなんだが」
「?」
「実はあいつ……公爵の妹なんだ」
「え?」
「本当の名はフラウ=フレイムローズ。もうバラしていいと言われたんでな」
「えぇぇっ⁉」
扉の外で微笑みながら、私はメイドキャップを外して髪を解きました。流れ落ちる銀髪を指で梳き、ほぅと息をつきます。
ローザの役目はこれで終わり。
ここからはフラウ=フレイムローズの出番です。
使用人部屋に隠してあるドレスに着替えて、ヴィクター卿の元へ向かいましょう。予定通りならばもう屋敷へ戻ってくるはず。
ヴィクター=エメル。野心家とはいえ彼も人の親。
フィーの友人として事情を訴えれば、あるいは考えを改めるかもしれません。
うまくいけば、あの二人はまた許婚に戻ることができる。
そしてお兄様も──
「フラウ」
ああ、いけません。
やはり疲れているのでしょう。お兄様のことを考えただけで幻聴が聞こえてしまうなんて。
フィーとゼトを見て、少々羨ましくなってしまいましたし。
私だって、今朝はお兄様とゆっくり過ごすこともできたのです。せっかく誘ってくださったのですから。思い出したらつらくなってきました……。
「用事は済んだのか」
「………?」
幻聴にしてはずいぶんはっきり聞こえますね。
そろりと横を向きます。
そこにお兄様が立っていました。
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