第106話 私の中の醜い感情




「初めて会ったとき、私は八歳、彼は九歳でした」



 手近な椅子に腰を下ろし、フィーは語りはじめました。






『お前の許婚だよ。今日からここで暮らすことになった』



 にこやかに紹介する父とは対照的に、初対面のゼトは今にも嚙みつきそうな顔をしていました。私は思わず母の後ろに隠れてしまったわ。



『きっと不安なのですよ。仲良くしておあげなさい』



 母に窘められて、もう一度彼のことを見てみました。

 肌はチョコレートのように滑らかで、髪は艶があって手触りがよさそうで、鋭い瞳は吸い込まれそうな琥珀色をしていて……。

 猫みたいって思ったんです。

 ふふ。彼が聞いたら怒るでしょうね。でも私にとって、猫は世界一美しい生き物なんですよ。

 もっと近くで見たい。仲良くなりたい。……そう思いました。

 ただ、最初はあまりうまくいきませんでしたね。

 お人形遊びしましょうと誘ったら、



『そんな女々しい遊びはしない』



 一緒にお菓子を食べましょうと言ったら、



『この国の菓子は不味いからいらない』



 何度冷たくあしらわれても、私は諦めませんでした。猫だってすぐには懐かないでしょう? 大切なのは根気強く接することだと、幼心に考えていました。

 そうこうするうちにゼトの態度も和らいできました。彼もまだ子供でしたし、意地を張り続けるのに疲れたのでしょうね。

 彼と仲良くなって過ごした時間は、私の子供時代で一番すばらしい思い出です。兄たちとは年が離れていたので、一緒に遊んだ記憶がなくて。

 だからすごく……楽しかった。


 ある日、ゼトと大喧嘩しました。

 彼が首にかけていたペンダントが珍しくて、自分のネックレスと交換してほしいとせがんだのです。



『いやだ』



 本気で交換してほしかったわけではありません。ちょっと外して見せてくれたらそれで満足したでしょう。

 それなのに、ついムキになってしまって。

 言い合いが激しくなり、取っ組み合いになりました。そのころは私のほうが背が高かったので、押し合いでは負けません。

 ペンダントに無理やり手をかけたとき、彼はとっさに私をぶちました。



『帝国人め!』



 そう叫んだ彼の声を今も忘れません。

 そこからの記憶は少し途切れています。

 駆けつけた侍従に引きはがされて我に返り、自分の拳に血がついているのを見て震えました。彼は床のうえで鼻血を流しながら、胸のペンダントを黙って握りしめていました。

 両親のとりなしで、私たちは一カ月ほどで仲直りしました。表面上は。

 でも、私は気づいてしまった。自分の中にあるおぞましい感覚に。


 ──優越感でした。


 三十年前の戦争。カフラーマ戦役。

 フォルセイン神聖王国の仲介によって終結しましたが、実質の戦勝国はアストレア帝国です。多くの罪のない人を犠牲にして手に入れた血まみれの勝利。

 帝国貴族としてその歴史を骨身に刻まれた私は、無意識のうちにゼトに優越感を抱いていました。


 私は彼にやさしくして『あげた』。

 私は彼と仲良くして『あげた』。

 それなのに彼は私に『逆らった』。

 どうせ『私のもの』なのに。

 ぜんぶ『私のもの』になるのに。


 所有欲。

 まるで美しい猫を檻に閉じ込めて可愛がるみたいに。

 ……自分で自分が恐ろしくなりました。

 一番恐ろしいのは、それに気がついたところで、現実は何も変わらないということです。

 彼に選択権はなかった。この家に連れてこられ、将来は私と結婚させられる。連合国を支配下に置くというエメル家の野心のために。私はその片棒を担ぐ。

 私がカフラーマ人に興味を抱くようになったのは、そのことが頭にあったからです。

 歴史を調べ、文化を学び、交流の場を探しました。孤児院への寄付もその一環です。あなたは立派なことだと褒めてくれましたが、そうではありません。

 これは贖罪です。自分でしたくて始めたのではなく、うしろめたさで始めたことです。


 だから、彼との婚約が破棄されたとき──

 正直ほっとしました。

 それに、新しい婚約者の公爵様はとてもすばらしい方です。

 父よりもずっと率直で誠実なお方。



『私はこの契約で、フォルセイン王国との交渉権を手に入れる。あなたも同等のものを手にする権利がある』



 婚約の前にそうおっしゃいました。



『望むものがあるなら言うといい。できる限り叶えると約束しよう』



 公爵様は約束を果たしてくださいました。あなたが今手にしている文書がその証です。

 これ以上望むものなんて、私にはありません。

 そう……思っていたのに。

 ゼトが、あのときのペンダントをくれると言い出したんです。なぜ今さらそんなことをって、私は苛立ちました。

 檻の扉は開いている。さっさと走って逃げればいい。

 けれどそのあと、あなたとゼトが一緒にいるところを見て思い知りました。


 ──檻にいるのは私のほうだ。


 諦めきれない。誰にも触れさせたくない。

 おかしいでしょう?

 私にはもう別の婚約者がいる。

 彼も別の誰かと婚約するでしょう。

 頭ではわかっています。わかっていても。

 ……どうしようも、なくて。


 いいえ。

 違います。

 これは恋なんかじゃない。


 これは──

 私の醜い『執着』です。



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