第80話 ………
「お嬢様。湯加減はいかがですか?」
「………」
「それでは、おやすみなさいませ。お嬢様」
「………」
「おはようございます、お嬢様。とてもよいお天気ですよ」
「………」
「朝食はハムになさいますか? それともベーコンに?」
「………」
「お茶をお持ちしました、お嬢様」
「………」
「お嬢様──」
「………」
「せっかくのお天気ですから、庭を散策されてはいかがですか?」
「………」
ぽつんと庭に立ち、私は日傘を傾けて空を見上げました。
細めた両目に陽光がじわりと染み入ります。
これは──
現実でしょうか?
何もかもがふわふわして。
風に混じるバラの匂いも、太陽の熱も、草を踏む感触も──すべて遠い彼方。
『ノイン様がご婚約なさいました』
眠りは訪れず、食べ物は味がしない。
何も感じない。
『お相手は、エメル家のご令嬢だそうです』
……そう。
これは夢。
私は微笑みました。
だってこんなこと起こるはずがないもの。
エメル家の令嬢、フィー=エメル。最初のパーティーでお兄様と挨拶していましたけれど、そこからは何もありませんでした。少しでも接触する機会があれば、必ず私の目に留まったはず。
つまり、これはただの夢。
ああ。そんなことだろうと思いました。きっともうすぐ目が覚めるはず。
でも。
一体どこからが夢だったのかしら……?
シルバスティン家に行ったのは? エリシャが処刑されかけたのは? お茶会は? 舞踏会は? 家族晩餐会は?
この──お兄様のいる世界に来たことは?
「………………」
立ち止まります。
色あせた風景の中に、痛いほど鮮やかな紅を見つけて。
とっさに引き返そうとしますが、できません。
悦びと絶望の波が同時に押し寄せるのを感じながら、私はベンチに腰掛けたお兄様の姿を見つめました。
お兄様も、私を待っていたようにこちらを見ます。
「おかえり。フラウ」
「………」
夢じゃない。
お兄様の声。
お兄様の眼差し。
お兄様の存在が、ここは現実なのだと告げています。
「フラウ?」
ご挨拶を──しなければ。
日傘の柄を握りしめ、あえぐように息を吸って、
「………………ご婚約おめでとうございます。お兄様」
喉の奥から引きずり出したその声が、自分のものとは思えませんでした。
お辞儀したままぼんやり地面を見つめます。
さらさらと揺れる枝葉の影に、背の高い人影が重なりました。
「驚かせてすまなかった」
お兄様が、風になびく私の髪をそっと耳にかけてくださいます。
「きちんと説明する。だから、そんな顔をするな」
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