第79話 家に帰ったら最悪なことが起きていました




 フィルと話ができたのは、シルバスティンを出立する直前でした。



「国に戻らなくてはなりません」



 さわやかな風が吹く城前の広場。

 白馬を連れた若い騎士は、私に向かって深く一礼します。



「え……? あなたをフレイムローズへ招待しようと思っていたのよ。私の命を救ってくれたお礼に」


「それはうれしいお言葉ですが、あまり長く王国を離れるわけにはまいりません。我が王が待っていますので」


「フォルセイン王に信頼されているのね」


「はい。光栄なことに」



 フィルは目を細めて微笑みました。



「それから、礼には及びません。あなた様をお守りするのが私の務めです。我が王女」


「その呼び方、やめてって言わなかったかしら」


「その後にお許しをいただきました」


「………」



 あの夜。

 暗殺者に襲われ、傷を負って朦朧とした意識の中で──

 私は確かにフィルに許しを与えました。



「あの《霊薬》」



 あのとき、フィルが懐から取り出した薬瓶。

 中の液体は虹色に輝いていたような気がします。



「もしかして……神鳥の……?」


「はい」



 騎士はあっさりとうなずきます。



「あらゆる傷を一瞬で癒す秘薬です。ほんのわずかしか存在しませんので、使うには王族の許可が必要です」



 つまり。

 許しを与えた私は自分が王族だと認めたことになる──

 そればかりか、王国に対して大きな借りができたことになります。

 この借りをどうすればよいのか、今のところは見当もつきません。



「それほど貴重なものだったのね」


「あなた様の命に比べれば安いものです」


「とにかく、何かの形でお返しをするわ」


「では、ぜひ王国に──」


「ごめんなさい。あなたと一緒には行けない」



 きっぱり言うと、フィルは少しだけ悲しそうにうつむきました。



「フラウちゃーん!」



 離れていてもよく通るエリシャの声。

 迎えの馬車が到着したようです。

 私はアイスブルーの瞳を見つめながら言いました。



「私の愛する人も、友も、この国にいます。今ここを離れることは考えられない」


「………」


「その代わりに殿下と結婚したら、必ず貴国を訪問すると約束するわ。そのときは改めてお礼を言わせて。今度はもっとゆっくり話がしたい。もちろんフォルセイン王──私のおじい様とも」


「…………………わかりました」



 観念したように、フィルはうなずきました。



「我が王はきっとお嘆きになるでしょう。まだお会いにすらなっていないお孫様が結婚なさるというのですから。ですが、どうにか説得してみます」


「ありがとう。フィル」



 握手のために手を差し出すと、騎士はその手をとってひざまずきました。



「どうか健やかに。あなた様の身に危機が迫るようなことがあれば、いつでも私をお呼びください。必ず馳せ参じると誓います」


「頼もしいですね。そういえば、あのときはどうやって駆けつけてくれたの?」


「?」


「ティルトの寝室は最上階よ。あの暗殺者と同じで、あなたも窓から飛び込んできたでしょう?」


「そうですね。実を言いますと……私は見た目よりずっと身軽なのですよ。我が王女」



 中性的な顔に涼やかな笑みを浮かべ、彼あるいは彼女は、からかうようにそう言いました。






 叔母と従弟に別れを告げ、私たちは帰途につきました。

 別れ際にティルトが抱きついてきたのを思い出し、エリシャは馬車の中で延々とにやけています。

 しかし一面に広がる麦畑を通り過ぎ、シルバスティン領を出るころには、二人ともすっかり眠り込んでいました。



「フラウ様。フラウ様」



 夜も近い時刻。

 御者に揺り起こされて目を覚まし、私はふらつきながら馬車を降りました。そういえば途中でカトリアーヌ邸に寄り、エリシャを降ろしたような気がします。あまり覚えていませんが。

 さすがに少し……疲れましたね。

 でも、ようやく帰ってこられました。

 お兄様がいらっしゃるこのフレイムローズ邸に。



「お帰りなさいませ。お嬢様」


「ただいま、ミア。湯を用意をしてくれる?」



 さて。

 叔母の説得に成功し、騎士も王国に帰すことができた。

 まずまずの成果と言えますが、やらなければならないことはまだ山ほどあります。

 改めてユリアスとの婚約を進める段取りに、弟リオンとの和解。あの暗殺者についてもお兄様とご相談しなくては──



「お嬢様」



 部屋のソファに沈んで物思いにふけっていたところを、ミアに呼びかけられました。



「? どうしたの?」



 入浴の準備を命じたはずですが。

 彼女はいつになく真剣な顔でそこに立ち、重ねた両手をきつく握りしめています。



「お嬢様、どうか落ち着いて聞いてください」


「………?」


「お館様が──」



 そして、彼女は言いました。



「ノイン様がご婚約なさいました」



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