第78話 すばらしい滞在でした
滞在最終日の朝。
招かれて訪れたニーナの部屋には、大きな肖像画が飾られていました。
家族の肖像。
そこに描かれているのは、まっすぐな姿勢で立つ淡い緑髪の前当主。椅子に腰かけているニーナ。彼女の腕に抱かれた二歳ほどのティルト。三人は穏やかな笑みを浮かべていて、当時の満ち足りた空気が伝わってきます。
隣には別の肖像画があり、二人の少女が描かれていました。
片方はすらりとした細身に賢そうな瞳の少女。もう一人は少しぽっちゃりして、花束を握ってうれしそうに微笑んでいます。
「わたくしはいつもお姉様のおまけだったわ」
姉妹の絵を見上げる私に、ソファに腰掛けたニーナが言いました。
「フィオナお姉様は誰よりも美しく、聡明で、社交界にデビューしてからも注目の的だった。フレイムローズ家のアハト殿や、皇帝陛下も一時は夢中になっていたのよ。それに比べて妹のわたくしは美しくもないし、賢くもない。若い頃は愚かですらあった。誰もがお姉様に期待していたし、わたくしにはほとんど見向きもしなかった……」
「──嫉妬していた?」
「いいえ。嫉妬する気も起きなかったわ」
それはどうでしょうか。
ニーナのそばに腰掛け、お母様のことを思い浮かべます。娘の私から見ても、彼女は妬ましいほど美しい人でした。
「正直に言うと、気楽だったのですよ。フィオナお姉様のおかげでわたくしは自由だったし、重責も感じなくて済んだ」
「でも、母は……」
「ええ。ある日、お姉様は書き置きだけ残して行ってしまった。まさかあのお姉様が他国の男と駆け落ちするだなんて。家族は誰も思いませんでしたよ」
紅茶を一口飲み、ニーナは物憂げに肖像画を見つめました。
「わたくしの状況はそれから一変しました。お父様のお加減が悪くなって、すぐにでも婿を取らなければならなくなった」
結婚相手に会ったのは式が初めてだったと言います。
「幸い夫になった人はやさしかったけれど、このシルバスティンを治めるには少しやさしすぎたわ」
苦々しく言って、彼女はカップを下ろします。
「お父様がお亡くなりになって、家を継いで何年か過ぎたころ、フィオナお姉様があなたを連れてふらりと戻ってきて……。お母様は家の恥だと嘆いたけれど、わたくしは内心うれしかった。だって、またお姉様と一緒に暮らせるんだもの。ただ、戻ってきたお姉様はまるで別人のように暗い目をしていた」
「叔母上。そのころの母から、何か聞いていませんか?」
「何か?」
「たとえば、なぜ私の父が死んだのか……とか」
「いいえ。お姉様は『あの人は死んだ』としか。それ以外に王国で起こったことは何ひとつ語ろうとしなかったわ」
「そう、ですか……」
何か情報を得られるかもしれないと思ったのですが。
フィルの話を信じるならば、おそらく母も真相については知らなかったのでしょうが。
「──フレイムローズ家に行くべきではなかったのに」
ふいに顔を歪め、ニーナは吐き捨てるように言いました。
「それも後妻だなんて。私が何度止めても、お姉様は耳を貸さなかった。ここにいても邪魔になるだけだから、と。もっと強く引き留めていれば……!」
そうすれば彼女は今も生きていたかもしれない。
ですが、未来のことは誰も予測できません。
ニーナは自嘲するように笑いました。
「わかったでしょう? わたくしがどれだけお姉様に憧れていたか」
「ええ」
「成長したあなたを見たとき、確信したわ。間違いなくお姉様の美と才能を受け継いでいる。あなたこそがこの家の本来の後継者だと」
「それは違います。叔母上」
私は小さくかぶりを振ります。
「両親を亡くし、夫を亡くし、姉を亡くし、それでもこのシルバスティン家を守ってきたのは他でもない叔母上でしょう?」
「……ええ。とてもつらかったわ」
悲しみを目にたたえ、ニーナはうなずきました。
「どうにかして息子だけは逃がしてあげたかった。このとてつもなく重い責務から。でも……それはわたくしの我儘だったのね。あの子はそんなこと望んでいなかった」
「そうですね。ティルトは、私の母に似て頑固なところがあるみたいですから」
「ふふ……そうね」
微笑んでニーナは立ち上がり、こちらに手を差し出しました。
同じように立ち上がってその手を握ります。
「ありがとう。フラウ。すべてに感謝しています」
「こちらこそ、叔母上。とてもすばらしい滞在でした」
ニーナはくしゃりと笑い、それから唇を震わせ、嗚咽を漏らしました。
私は彼女の体を抱き、そのあたたかい背をそっと撫でました。
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