第81話 一応理由をお聞きします
風で膨らむスカートを押さえ、ベンチに腰を下ろします。
お兄様は読みかけの分厚い本を脇に置きました。
「まずはお前の話を聞かせてくれないか」
請われるまま、私はシルバスティンで起こった出来事を話しました。
ティルトの病。霊獣を探す一晩の旅。母子のわだかまりと和解。
そして、暗殺未遂。
「──斬られた?」
暗殺者の攻撃を受けたときのことを話すと、お兄様は鋭く私に尋ねました。
「はい。ですが、騎士の持っていた《霊薬》に救われました。傷跡も残っていません」
「王国の秘薬か……」
どんな大怪我もたちどころに癒す奇跡の《霊薬》。
噂には聞いていましたが、実在するとは私も思っていませんでした。
「お兄様はどう思われますか? 暗殺者のこと」
「その者は私の名に反応したのだな」
「そう、思うのですけれど」
「私の配下がお前を傷つけるとは考えにくいが……」
お兄様は難しい顔をなさったあと、私を見て小さくうなずきました。
「とにかくお前が無事でよかった。シルバスティン家のこともよくやってくれたな」
「いいえ、私は……。叔母を説得したのはティルトです」
「きっかけになったのはお前だ」
「………………………………あの」
膝に置いた手を握りしめます。
「そろそろ──」
「婚約のことか」
「……はい」
婚約。
お兄様の口からその言葉を聞くだけで、胸を抉られるような痛みが走ります。
「どうして」
聞きたい。
でも──
聞きたくない。
「フィー=エメルと……」
大司教の孫娘。
品行方正で生真面目なフィーお嬢様。
……あんなつまらない女。お兄様とは釣り合わない。
強く握りしめた手のひらに食い込んだ爪が肉を破る寸前、お兄様は静かな声で言いました。
「外交上必要だった。それだけだ」
「外交……?」
「エメル家を通じてフォルセイン王国から接触があった」
はっとしてお兄様を見ます。
フィルではなく、他の王国関係者が?
「こちらの望みは、お前が殿下と結婚して皇后となること。先方の望みは、お前が王族として国に戻ること。二つを両立させることは不可能だ」
「でも、フィルが王を説得してくれると……!」
「その騎士にどれほどの権力があるかはわからない。が、たとえ王を説得できたとして、国には譲れぬ威信というものがある」
「国のメンツがそれほど重要ですか?」
「時にはそれが戦の引き金になる。カフラーマ戦役は知っているな」
私はこくりとうなずきます。
帝国と南方で接するカフラーマ連合国。いくつかの部族が集まってできたこの国と、帝国は三十年ほど前まで交戦状態でした。
圧倒的な軍事力で正面から攻め込む帝国軍。
複雑な地形を利用して奇襲を繰り返すカフラーマ連合軍。
数十年に及ぶ攻防で数えきれない命が失われ、戦場は泥沼と化しました。帝国軍は多大な犠牲を出しながらも突き進み、カフラーマの滅亡は目前だったといいます。
そこに仲介役として現れたのが──
フォルセイン神聖王国。
「結果として帝国は王国と同盟を結び、カフラーマを国家として存続させることに合意した。これはおそらく紙一重の選択だったろう」
あのとき同盟を拒んでカフラーマを滅ぼし、フォルセイン王国との戦争に突入しても不思議はなかった──
年配者は口をそろえてそう言います。
「……先代皇帝の説得に尽力したのがエメル家でしたね」
歴史書の記憶をたどり、私は呟きました。
七血族のひとつ《深緑》から説得を受けたことが後押しとなり、皇帝はフォルセインとの同盟を受け入れる決断をしました。
戦争終結に貢献したとして、エメル家は王国の教会総本山から大司教の地位を授けられています。
「この三十年、帝国と王国は対等な関係でありながら、常に微妙なバランスを保ってきた。二国間の調整役として貢献してきたのもエメル家だ。だからこそ、お前の兄である私がその令嬢を迎えれば、フォルセイン王国の顔も立つ」
「それは──!」
私は思わず声を荒げました。
「お兄様の結婚が、私の結婚を容認する条件だというのですか……⁉」
両国のバランスを保つ?
大義名分のための結婚?
エメル家はそうして平和を歌うのでしょう。平和という名の家の繁栄を。
「そんなの、納得できません!」
お兄様を利用するなんて許せない。
それに、たとえどんな理由があろうと──
「嫌です。私はっ……」
「フラウ」
「私だけのものになってくださると」
「………」
「約束してくださいました……!」
お兄様が誰かと結婚するなんて──嫌。
嫌。嫌。嫌。嫌!
嫌だ嫌嫌イヤ嫌嫌嫌絶対嫌!
「フラウ」
「……いやっ‼」
「私を見ろ」
ふいに顎をつかまれ、涙をこぼしながら顔を上げると、《真紅》の瞳がすぐ目の前にありました。
「教えてくれ。お前は私の何がほしい?」
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