第2話 フラウ=フレイムローズと申します




 今の私は、雨宮渚改めフラウ=フレイムローズと申します。

 順を追ってお話しましょう。

 真っ白な光に包まれたと思ったら、私はベッドで目を覚ましました。

 住み慣れたつつましいアパートではなく、かといって真っ白な病室でもなく。

 例えるなら最高級ホテルのスイートルームを思わせるほど豪奢で、広々とした寝室。その最奥にある天蓋のついたキングサイズベッドで。

 そして、そのベッドの脇に──

 あの方がいらっしゃったのです。



「目が覚めたか」



 何度も何度も何度も何度も。

 想像した声。

 そんな私の想像を軽く飛び越えていく、少しかすれて涼しげな、信じがたいほどの美声で、あの方はおっしゃいました。



「急に倒れたと聞いたが、具合はどうだ?」


「…………様……」



 これは夢?

 であれば、これほどすばらしい夢があるでしょうか。

 鮮やかな赤い髪。血に濡れたような紅の瞳。自分以外のすべての人間を睥睨するような鋭い目つき。肖像画の中で酷薄な笑みをたたえていた薄い唇は、今は波ひとつない静かな水面のようにまっすぐ閉じられています。

 あんなにも恋焦がれた方が、まるで現実のようにくっきりとした姿で、私のすぐ目の前にいるなんて。



「生きて……いらっしゃったんですね……?」



 私が涙ぐみながら言うと、あの方──ノイン様は首をかしげました。



「私が死ぬ夢を見たのか?」


「夢……。そう……あれは夢、だったのですね」



 よかった。本当に。

 そう思うと、また涙がこみ上げます。

 ノイン様は少し困ったような顔をして、そっと手を差し出し、あふれる涙をぬぐってくださいました。ほんの少し指が触れただけですが、私の心臓は破裂しそうになります。

 夢なのに、なんて生々しい感触……!



「もう出かけなくてはならないが、フラウ、お前はゆっくり休むといい」



 …………………フラウ?


 私がぽかんとしている間に、ノイン様はさっと身をひるがえして部屋から出て行ってしまいました。

 入れ替わりにメイドがそばにやってきて「フラウお嬢様、お茶をお持ちいたしますか?」と尋ねてきます。ぼうっとしながらうなずきますと、メイドは恭しく一礼して、やはり部屋を出て行きました。


 フラウ。フラウ……。


 その言葉を胸の内で繰り返しながら、おそるおそるベッドを降りました。大きな両開きの窓に近づいて外を見ると、眼下に広がるのは美しい夕日に照り映える広大な庭園です。そこには数えきれない数の赤いバラが咲き乱れています。

 窓辺を離れて次に向かったのは、背丈の倍近くもある巨大な姿見。そこに映っている自分の姿を眺めます。

 腰まで届く波打つ銀髪に、角度によって虹色の光を放つ淡い水色の瞳。人形のように小さく艶っぽい唇。天才彫刻家が丹念に彫り上げたかのような精巧な美貌。身にまとうのは細かな刺繍がほどこされ、ふんわりと裾の広がったネグリジェ。

 どこからどう見ても、雨宮渚の面影はありません。

 それでいて、私はその姿に見覚えがあります。


 フラウ=フレイムローズ。


 ノイン=フレイムローズ様の妹にして、気高き《白銀》の血を引く公爵令嬢。

 血のつながらない兄をひそかに慕いながら、かなわぬ想いに鬱屈し、その腹いせに弟や使用人を虐め、あまつさえヒロインと皇太子の仲を引き裂こうとする──

 いわゆる「悪役令嬢」。

 鏡をじっと見つめながら、私はその陶器のようになめらかな白いほっぺをつまんだり、思いきりひっぱたいたりしました。夢とは思えないほどリアルな感触と痛み。さらには頭の中にあふれてくるフラウとしての記憶。

 まさか、これは夢ではない……?

 だとすれば私はノイン様と同じ世界にやって来て、フラウ=フレイムローズの体に乗り移ったということになります。

 これは奇跡?

 祝福?

 ──いえ。

 私は巨大な鏡にとりすがって、悲痛な声を上げていました。



「どうして妹なんですううううううううう⁉」



 私も欲張りは言いません。

 モブキャラの男爵令嬢、いえ、その屋敷の下っ端メイドで十分でした。

 ただ、あの方の家族でさえなかったら──

 たとえどんな障害があろうとくぐり抜け、あの方との恋愛ルートを一直線に目指すことができましたのに。

 どうして。なぜ。よりによって。

 妹‼

 これでは恋愛フラグが立てられないではありませんか⁉

 原作で、ノイン様が誰かと結ばれる描写はありませんでした(もしそんなことがあればすぐ作者様に家凸していたことでしょうけれど)。

 ですが、それは裏を返せば「誰とでもフラグ成立可能」ということ。前書きに「家族以外の」とつきますが……。

 ノイン様とフラウに血のつながりは一切ありません。ノイン様は前公爵と最初の妻の子であり、フラウは後妻の連れ子ですから。

 しかしこの帝国には、戸籍上家族である者同士の結婚や恋愛を禁じる厳しい法律があります。破れば即死刑。

 ですから原作のフラウは、自分の恋に絶望したのです。たった今の私のように……ああ。

 ノイン様と同じ世界に住むことができたなら、結ばれたいと思っていました。ずっとずっとそう思ってきました。ノイン様と恋人になるためならば、あんな卑怯な手段とか、こんな恐ろしい方法だって……。

 そんなふうに空想することで、自分を慰めていたのかもしれません。

 それなのに。

 奇跡が起こって同じ世界に来られたというのに──

 い・も・う・と!



「お嬢様、お茶をお持ちしまし……ヒィッ⁉」



 部屋に入ってきたメイドが悲鳴を上げました。鏡に映った私の表情を見てしまったのでしょう。

 ゆらり、と彼女を振り向きます。



「ねえ、あなた」


「は、はいっ……お、お嬢様っ……」



 カタカタと震えるメイド。運んできたティーセットも同じく小刻みに揺れています。



「今日は何年何月何日だったかしら?」


「帝国歴七八八年四月七日でございますっ……!」



 ちょうどシリーズ第一巻、最初の場面の日付ですね。

 とすると私、フラウは十六歳。

 時刻は夕方ですから、今ごろヒロインと皇太子が宮廷の一角で鉢合わせして、皇太子が一目ぼれをしているところでしょうか。

 『アストレア帝国記』は宮廷恋愛劇であり、さまざまな貴族や騎士がヒロインへ愛をささげる逆ハーレム物語です。そんな主軸などそっちのけで、悪役であるノイン様の暗躍ばかりを私は追いかけていましたが。

 三日後には皇太子の十七歳の誕生パーティーが開かれるはず。そのパーティーにフラウは参加していなかったと思いますが。

 ……なるほど。

 おびえるメイドが給仕した紅茶を口に含みながら、私は考えます。

 物語は始まったばかり。

 誰かがノイン様と恋愛フラグを立てるとしたら、これからでしょう。

 ならば常に私がおそばに仕え、ほんの少しでもフラグ建築を試みようとする者がいたら、この手で迅速に処分すればよい。

 私は本来のフラウと違い、中身は二十三歳。大人の女です。現実の恋愛経験こそありませんが、この小説世界に限って、恋愛フラグを見誤ることはないと言ってよいでしょう。

 必ずや──すべてのフラグをへし折ってさしあげます。



「………誰にも」


「はひっ、お嬢様?」



 いけない。声が出ていました。

 私はメイドをひと睨みで黙らせると、涼しい顔で紅茶を飲み干します。

 そう、誰にも──

 私のお兄様を渡したりいたしません。

 私は、悪役令嬢フラウ=フレイムローズなのですから。



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