第1話-⑧
春月さんに作業用のウィンドブレーカーを羽織らせて、わたしたちは森の中を抜けて、あの砂浜にやってきた。天気は快晴。つい半日前まで、土砂降りだったのがうそのような青空だ。白い砂浜には、とうぜん誰もいない。
そういえば、日が高いうちにここに来るのは、なんだか久しぶりな気がする。
春月さんはローファーを脱いで、白い砂浜に裸足で踏み出した。わたしもスニーカーを脱いで、それに続く。
ざざーん……ざざーん……
寄せては返す波。春の日差しに照らされた砂浜は、ほんのりとあたたかいけれど、海はまだまだ冷たい。春月さんは、その境目のあたりを綱渡りをするかのように歩いていく。
「海が、好きなの?」
わたしは春月さんの邪魔をしないように、小さく尋ねた。春月さんは振り返らずにつぶやいた。
「うん。好き」
ふいに立ち止まると、春月さんは膝を折ってその場にかがんだ。波が、春月さんのつま先に触れて、すぐに戻っていく。春月さんは手にぶらさげていたローファーを波の届かない砂浜に放り投げると、ウィンドブレーカーを脱いで、部屋着のシャツのボタンをぷちぷちと半ばほどまで開いた。
「ちょ、ちょっと……」
戸惑うわたしをよそに、春月さんはじっと、何かそこにいるかのように、波打ち際から目をそらさない。
わたしもそこにしゃがみこんでみると、きらきらと、砂の中の細かい粒子が、太陽の光を反射してきらめいているのが見えた。
「きれいだね――」
「静かにして」
わたしは、こういう時につい、会話をしようとして口をはさんでしまう。けれど、春月さんにとって、それは邪魔なことなのかもしれない。
だから黙っていた。
春月さんは、じいっと、しばらくそうしていた。だんだん影の向きが変わってきても、じっと……わたしは、ただ黙って、そのそばにいた。そばにいても、春月さんは何も言わなかった。
わたしに聞こえるのは――
ただ波の音と、春月さんの、かすかな呼吸の音だけ。
でも、きっと春月さんには、何かもっと、たくさんの、別の音が聴こえているのかもしれない、と思った。だから、わたしの声がノイズになっているのかもしれない、と。いつも教室でイヤホンをつけているのも、雑音を耳にしたくないからなのかもしれない。
春月さんが立ち上がったころには、すでに太陽は天頂に達していた。三時間以上も、じっとここにいたことになるだろうか。春月さんはローファーを拾い上げて、また、砂浜を当てもなく歩き出した。わたしも、それに黙ってついていった。
わたしたちは砂浜に座って、海風を浴びていた。
春月さんは、今は下着をつけていないから、少し風が強く吹いたらシャツがはだけて、胸があらわになってしまいそうだ。だけど、どうせ周りには誰もいないし、――わたしも、春月さんの裸はもう何度か見てしまっているので、今更気にしたりはしなかった。
「春月さんは、どこから来たの?」
海を見ていたら、なんとなく、そんなことが気になった。
「引っ越してくる前に住んでいたところにも、海があったの?」
「うん。あった」
「そうなんだ。この町の近く?」
「ううん。たぶん……ずっと遠く」
「なぜ、引っ越してきたの?」
「……わからない」
「え?」
「ランに、言われたから……この町に来てみようって」
「ランって?」
わたしは、なんだか質問攻めみたいになっているな、と思ったけれど、春月さんはぽつり、ぽつりと話してくれた。
「ランは、わたしの……お世話をしてくれている人。学校に行くのに、お金を出してくれたり……家を用意してくれたりするの。ランは、あちこち、いろんなところへ行っていて……わたしも、それについていくの」
「じゃあ、あちこちに引っ越してるんだ?」
うなずく。
「それじゃあ、いつかこの町からも……引っ越していっちゃうのかな」
「わからない……でも……」
「でも?」
「この町なら、見つかる気がする」
「見つかるって……?」
「わたしの――お父さんの……」
――と、そこで会話が途切れた。
わたしは、それ以上何かを聞く気にもならなかった。すると春月さんは、わたしのほうにすっと体を寄せて、肩にぴったりとくっついた。
「瑠璃」
名前を呼ばれて、どきっとした。急に緊張してしまって、春月さんのほうを見れない。
「瑠璃――あなたがいてくれて、よかった」
「え……?」
それは、どういう意味……と、聞くまえに、春月さんのほうから尋ねた。
「これからも……また、ここに、来てもいい?」
ちょっと、不安げな声なのは、昨日わたしが言ったことを、気にしているからなのだろうか。確かに、昨日はちょっとむっとして、ここではわたしが先客だ、みたいことを言ってしまったかもしれない。
でも、ここはわたしの場所であっても、わたしだけの場所じゃない。
「いいよ。また、ここで会いましょう」
春月さんは、くすっと、ため息のように微笑んだ。
わたしの肩に、亜麻色の髪の毛がかかる。春月さんの体温、春月さんの香り、春月さんの……
「ねえ、わたしも……いい?」
返事はない。
「わたしも……名前で、呼んでいい? 光、って」
「もう一回……」
「え?」
「もう一回……呼んで」
「……光?」
春月さんが、ぎゅ、とわたしの腕を抱いた。
「あなたに、名前を呼ばれると――なんだか、きらきらするみたい」
「だって……そういう意味じゃない。光、って」
「うれしい」
なんだか、変な感じだけれど――
わたしは、急に気恥ずかしくなって、でも、光を振りほどけなくて、ずっとそのまま、身をゆだねていた。
夕方。海の向こうに真っ赤な夕日が沈んでいく。水平線は電球のフィラメントみたいに真っ赤に焼けて、きらめいている。
「よかったねえ。クリーニングが、間に合って」
ばあちゃんは、しっかり乾燥機にかけられてパリッとした制服に身を包んだ光を見て、ほっと溜息をついた。光はばあちゃんのことをじっと見つめると、ぺこり、と小さく頭を下げた。
「お世話に、なりました」
「いいよ。よかったら、またいつでもおいで」
ばあちゃんにもう一度頭を下げたあと、光は、わたしのほうを見た。
「ありがとう。瑠璃」
「うん。気をつけてね、光」
「……さようなら」
光は小さく手を振って、砂利道をゆっくりと歩いて行った。
ばあちゃんはそれを見送って、光の姿が見えなくなってから、扉をゆっくりと閉じた。
「それにしても、ちょっと変わった子だねえ」
「うん。ちょっとね」
「でも、ずいぶん仲がよさそうじゃないか。それに、悪い子じゃなさそうだし。瑠璃、ああいう友だちは大切にするんだよ」
「うん。わかってる」
みるみるうちに日が沈んできて、あたりが暗くなってくる。
「やれやれ、暗くなる前にろうそくを出さなきゃね。瑠璃、準備しなさい」
「はーい」
その夜もまた、わたしは散歩に出かけた。砂利道を歩いて、鬱蒼とした防風林を抜け、いつもの砂浜へ――
ところが、光はいなかった。
たった一人で歩く、夜の砂浜。なんだかがらんとしていて、風が冷たくて、少し――寂しいと感じる。砂はほんの少し、夜露でしっとりと濡れていて、裸足で踏むとぎゅっと固くなる。波は静か。夜空の星は、きらきらと音を立てて瞬いている。
砂を踏む音が、広い砂浜にこだまする。それは、わたしの足音だ。当たり前だけど、いつも以上にそれを感じる。そうだ、わたしが光から感じていたものは、思ったより多かったのだ。彼女の姿だけじゃない。呼吸、言葉、匂い、体温、ゆっくりと立ち上がったり、歩いたりする動作、それによってかき混ぜられ、渦を巻く海風……
それがどこにもない。
ここは空っぽだ。だから、ちょっとだけ怖い。
「こわくないよ」
声に振り返ると、そこに、小さな子どもの姿を見たような気がした。だけど、それはぼんやりとした影、残像のように一瞬だけ、ぱっと光ったかと思うと、すぐに消えた。
「だいじょうぶ。こわくないよ」
「――――、」
幻聴だ。
ごうごうと、海の向こうから吹いてくる風がうねり、波を巻き上げ、森の木々を揺らして、そういう風に聞こえてしまうだけだ。よくある錯覚、空耳。でも、不思議と勇気づけられる。
「うん……こわくない」
もしかしたら、光にも、聞こえているのかもしれない。
海の声が。
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