第1話‐⑤

 夜になると、雨は文字通り土砂降りになっていた。滝のように激しい音が、窓の外から聞こえてくる。


 時々空が光ったかと思うと、雷の衝撃が、びりびりと窓を揺らす。うちは古いから柱や床がびりびりと震える。




春雷しゅんらいってやつだね」




 ばあちゃんが熱燗を呑みながら、しみじみとつぶやいた。




「シュンライ? 春の雷ってこと?」


「そう、春を告げる雷ってことさ。雷のことを『稲妻』っていうだろう。イネの妻。こういう季節の雷は、豊作の予兆なんだよ」


「へえ……」




 ドォオーン……!


 うちは山が近いからか、すごく近くに雷が落ちることが多い。そのたびに地鳴りとともに、窓ガラスが震える。わたしは、窓の外を見ながら、ぼんやりと考えていた。


 ――春月さん、どうしているだろう。







 ふつうはこんな雨の日に、わざわざ散歩に行くことはしない。だけどわたしは、どうしても気になって眠れず、レインコートと傘を手に、こっそりと夜の散歩に出かけた。


 外に出たとたん、ものすごい水飛沫が顔をたたく。砂利道はぬかるんでいるし、防風林の中に入ると、雨粒が木の葉を叩く音が叫び声のように聞こえてくる。また、雷が鳴る。たとえ遠くに落ちたとしても、空がぴかっと光るたびに、心細くなる。それにものすごく寒い。




「うぅ~……やっぱり来なきゃよかったかな……」




 でも、砂浜はすぐそこだった。


 防風林の中なら、枝葉が雨をいくぶんかさえぎってくれる。わたしは真っ暗な砂浜を見渡してみた。海はけたたましい雨音をあげて煙り、波は荒れ狂っている。


 人っ子一人いない。


 わたしはほっとしたような、がっかりしたような――さすがに春月さんも、こんな日にわざわざ外に出てくることはないだろう。ちょっと考えればわかることだった。こんな月のない夜に、わざわざ……


 また雷が鳴った。ぴかっと、沖のほうに突き刺さるように落ちてきたのが見えた。




「あっ……!」




 その時――見えてしまった。


 雷が空を照らした一瞬。波打ち際に、傘もささず、制服姿のまま、びしょ濡れでたたずむ、亜麻色の髪の少女の姿。


 空がものすごい音でとどろいた。


 わたしはたまらず走り出していた。砂浜はびっしょりと濡れていて、歩きにくいったらない。わたしは足を何度も取られながら、ようやっと春月さんのもとにたどり着いた。




「春月さん! な、なにしてるの、こんな雨の中……!」




 だけど春月さんは、夜空と溶け合う水平線をまっすぐ見つめたままだ。何も言わず、その場を動こうともしない。




「春月さん、ねえってば……!」


「きれい……」


「え?」




 春月さんの声は震えていた。


 ――春月さんは、泣いていた。雨が、顔を伝っているだけ? ううん、ぜったい違う。泣いていたのだ。青い瞳から、涙を流していた。映画を観ながら、音楽を聴きながら、ほろほろと涙を流すような、そんな表情だった。


 雷が何度もとどろく。夜空が白く明滅し、海が、空気が震える。神さまがいるのだとしたら、ものすごく怒り狂っているに違いなかった。




「きれい……」




 すると春月さんは、一歩、一歩と、白くけぶる海へと、ゆっくり歩きだした。手に持っていたローファーをその場に落とし、足を波の中へ踏み込ませていく。涙を流したまま、どこか、恍惚とした表情で、何かに誘われるかのように――




「ま、待って!」




 足首が完全に水の中へ隠れてしまったところで、わたしははっと我に返り、慌てて彼女の手を引っ張った。――冷たい。それに、ひどく細くて、ちょっと力を入れたら握りつぶせてしまいそうな、珊瑚みたいな指だった。


 その時、風にあおられて高く持ち上がった潮が、わたしたちの足元に流れ込んだ。膝くらいまである波が、わたしの体を押して、また引き潮が身体を海のほうへ引っ張り――




「うわわっ――」







 ばっしゃーん。


 間抜けな音と共に、わたしは波の中に尻もちをついた。


 そして、つかんだままだった春月さんの腕を引っ張って、引き倒すような形になってしまった。




「ご、ごめん……!」




 春月さんは両手を波のなかについて、四つん這いになっていた。きれいな髪の毛に濡れた砂が絡みついて、顔も泥で汚れている。




「だいじょうぶ……じゃ、ないよね。ごめ――」


「あなた……」




 その時、初めて、春月さんから話しかけられたような気がした。


 青い宝石のような瞳が、ぽっかりとこちらを覗いている。




「いつから……そこにいたの?」


「え……?」




 春月さんは、両腕で体を抱いて、ぶるぶると震えた。




「寒い……」




 その場にへたり込んでいるわたしたちの体に、波が勢いよくぶつかっては引いていく。それに、雨もますます強くなっていくようだ。


 ぴかっと空が光った。雷も、ひっきりなしに落ちてくる。




「ねえ、とりあえず、うちに行こう」




 わたしは目を丸くする春月さんの手を取った。




「すぐそこだから。シャワー浴びて、あたたかいものでも飲んで。このままだと風邪引いちゃうよ、わたしも、あなたも」




 わたしはその場に取り落とした傘を拾って、春月さんのほうにかぶせた。


 春月さんは背が高いから、ぐっと体を寄せて、目いっぱい腕を伸ばさないといけない。彼女の体温はものすごく低くて、まるで氷に触れているようだった。

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