第1話-④
その日の夜。わたしは、ためらいながらも、また夜の散歩に出かけた。ちょっともやもやしていたし、夜風に当たりたかったし、なんとなく落ち着いていられなかったし――それに、春月さんを気にするあまり日課をおろそかにするのは、ちょっと悔しかった。
砂利道を進み、防風林を抜け、また砂浜へ。
そこにはやっぱり、彼女の姿があった。
春月さんは昨日と同じように、制服姿で、ローファーを片手に持って、ぼんやりと空を見上げている。
「…………、」
昨日のことがあったから、なんとなく話しかけにくい。また「うるさい」とか「静かにして」とか言われちゃうのを想像すると、ものすごく気が重くなる。
だけど、このままずっと、あの人のことを気にし続けているのは、もっと嫌な感じがする。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥という言葉もある。ちょっと使い方は違うだろうけど、まあ、そういうことだ。
「よしっ、」
「――へえ、そうなんだ」
思い切って話しかけようとした矢先、波の音に乗せて、かすかに、声が聞こえてきた。
春月さんの声だ。
彼女はスカートのまま砂浜に腰を下ろして、隣を見た。
「うん。ここなら、見つかるかもしれないって、そう思って……うん、ランもそう言ってた。わたし、この町は好きだよ。海も、風も、空も……とってもきれい。すごく、落ち着くの。そう――なんだか、帰ってきたって感じがする」
しばらく無言のあと――
春月さんは突然、くすくすと笑いだした。
「あっはは。おかしいね、それって」
靴を砂浜に置くと、両手を後ろについて、上半身をそらせるような姿勢になった。
「へえ、そうなんだ。山の上……? うん、わかった。週末になったら、行ってみる。……うん、海からは遠くなるし……大丈夫、ランはこの町のこと、詳しいから……」
春月さんはひとりなのに、まるで誰かと話をしているみたいだった。
相槌を打ったり、笑ったり、じっと耳を傾けていたり……
そうしているときの姿は、すごく、普通の女の子らしかった。快活で、人と話をするのが大好きなウンディーネ。
春月さんは立ち上がって、スカートの砂を手でほろった。
「うん、また会いに来るわ。さようなら――」
波打ち際に向かって、手を振る。
しばらくそうしてから、ローファーを拾い上げて、裸足のまま歩き出した。ちょうどその時、風がさっと吹いて黒い雲がかかり、月が隠れた。それに気をとられていた一瞬のうちに、春月さんは姿を消してしまっていた。
わたしはさっきまで彼女が座っていたところに歩みよった。そこには春月さんの、ひとり分の足跡しか残されていなかった。
「誰と……話してたんだろう?」
いや、誰もいなかった。
ひとりでしゃべっていたのだ。間違いなく。
だけど次の日、学校で見た春月さんは、相変わらずの様子だった。
いつもイヤホンを耳につけて、窓の外をぼうっと見ている。時々、クラスメイトに――というか主に八石さんにだけど――話しかけられると、短く返事をするけれど、それ以外はずっと黙っている。そして放課後は真っ先に教室を出る。
そういえば、ご飯を食べたり、トイレに行ったりしているのを見たことがない。
そして、春月さんは毎晩、砂浜にやってきては、夜空を見上げている。
白い陶器みたいな足を波打ち際にさらして、たたずんでいる。
そして、時々――誰かとしゃべっているかのように、ひとりごとを言ったり、砂浜を歩き回ったりしている。それを見るたびに、わたしはなんだか、春月さんのことが怖くなってきた。ミステリアス、電波、クール、無愛想、でも砂浜で見せる表情は、かわいらしくて、きれいで……
いろんな印象が、螺鈿に浮かぶ色彩のように変わる。
ずっと春月さんのことを考えているうちに、一週間はあっという間に過ぎてしまった。
「ねえ春月ちゃん! 土日は何か用事ある?」
金曜日の放課後。週末を前に浮かれるクラスに、八石さんの声が響きわたる。
「日曜日、部活休みなんだ。よかったら、どこかに遊びにでも行かない? 引っ越してきたばかりなんでしょ? この町のこと、案内しようか? といっても、そんなに面白いところなんてないけどさ」
春月さんはホームルームを終えたばかりで、イヤホンをしていなかった。真っ青な瞳で八石さんをじっと見つめる。
「どう?」
「日曜日は、行きたい場所があるの」
「へえ! そうなんだ。どこ?」
「あなたには……関係ないわ」
「そっか。ごめんね!」
八石さんは自分の鞄をひっつかむと教室を出て、玄関とは反対方向、体育館のあるほうへ颯爽と歩いていく。今日も部活があるのだろう。いっぽうの春月さんは手に握っていたイヤホンを耳につけると、教室を出て玄関のあるほうへと歩いて行った。
「美琴、ほんとよくやるよね~」
「ね。あんな風に言われても、毎日ずっと話しかけてるし……」
「『関係ない』って、そんな言い方しなくたっていいのにね」
クラスの女子たちの噂話が、耳に入ってくる。
八石さんは周りの目なんか気にせず、積極的に春月さんとコミュニケーションをとっているが、それがかえって周囲から春月さんを孤立させているように感じられた。でも、だからって、そんな風にこそこそ陰口を言うのは、見ていて気分がいいものじゃない。
「行こ、玉ちゃん」
わたしは早く教室から出たくて、玉ちゃんの手を引いた。
学校の門を出た近くにはバス停があって、たくさんの学生が列を作っている。わたしと玉ちゃんは電車通学なので、駅へとまっすぐ続く大通りを歩いていく。
「玉ちゃんはさ……」
わたしは思い切って、尋ねてみた。ところが、わたしが切り出す前に、玉ちゃんが先回りして言った。
「春月さん……のこと?」
「……うん。どう思う?」
「どう、って言われても……結局、話したことないし……」
「だよね……」
「瑠璃ちゃんも?」
うなずいた。本当は砂浜で話しかけたことはあるけれど、教室では一言も会話していない。
玉ちゃんはうつむきながら言った。
「春月さんも、わたしと同じなのかな……って、思うことは、あるよ」
「同じ?」
「わたしって、その……人見知りだから。あんまり仲良くない人とかには、ああいう感じで、冷たく見られちゃうことって、あるのかなあ、とか。こんな風に気楽に話せるの、今でも、瑠璃ちゃんだけだし……八石さんみたいな、ぐいぐい来る感じの人とか、苦手だし。あんまり、気の利いたこととか、言えないし……変なこと言っちゃうことも多いし」
「うん……」
「だから、春月さんも、ちょっと冷たい感じに見えるけど、もしかしたら、そうなのかなって思ったりすることも……あるよ」
「そっかぁ……」
「やっぱり、気になるの? 春月さんのこと」
「うん……」
「この間、言ってたこと?」
「それもあるし……」
「瑠璃ちゃんは、春月さんと、仲良くなりたいの?」
「う~ん……」
そう言われて、わたしは言葉に詰まった。
仲良くなりたい……わけじゃない。と、思う。ただ、最初に見たときの印象が、頭からずっと離れない。砂浜で、白い肌を月にさらし、波とたわむれる妖精の姿。今でも、はっきりと思い出せるほどだ。
でも、だからと言って、仲良くなりたいわけじゃない。仲良くなって、どうする? 一緒に遊びに行ったり、ご飯を食べたり、他愛もないおしゃべりをしたり……たぶん、そういうことがしたい、わけじゃない。
どうして、春月さんのことがこんなに気になるんだろう。
その時、ぱちっと足元で水がはじける音がした。空を見ると、どんよりと暗い影がかかっている。
「やだ、雨? 傘持ってないのに」
「あ……わたし、持ってるよ」
玉ちゃんが鞄から、赤い折り畳み傘を取り出して微笑む。まるで聖母のような笑顔に思えた。
「い、入れて~」
「いいよ。駅まで一緒に行こ」
広げられた傘はとても小さかった。わたしは玉ちゃんと肩を寄せ合いながら、一緒に歩き出す。
ゴロゴロ……
空がうなる音まで聞こえてくる。
「強くなりそうだね……」
玉ちゃんが黒い空を見上げて、不安そうにつぶやいた。
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