【プロローグ】

 一日三度の食事のたくそうせんたく、庭の草むしり。

 それが私、ミシェル・テナーの日課だ。

 テナー家は一応フォルメーア王国からしやく位をたまわってはいるけれど、栄えていたのは祖父の代まで。祖父がくなって十一年。父ロバートがあといでからというもの、我が家はすい退たいいつ辿たどっている。

 父があやしげなもうけ話にだまされ、資産の大半を失うまでに、二年もからなかった。領地を切り売りしてかろうじて爵位と王都のべつていは残せたものの、税収がとぼしく官職にもいていないテナー家が貴族めいかんから名を消すのは時間の問題だ。それでも父は過去の栄光が忘れられず、散財をり返している。

 ここ数年の収入源は、こつとうしゆうしゆうしゆだった祖父のコレクションを売ることくらい。美しい調度品の並んでいたたながスカスカになって物悲しい。広さだけがまん子爵屋敷我が家は、今は使用人をやとうお金もないから、私が家事いつさいを引き受けている。それは別にいいのだけれど……。



「ミシェル! ちょっと!」

 居間パーラーから金切り声が聞こえてきて、私は大急ぎでけつける。

「どうされましたか? お継母かあ様、お義姉ねえ様」

 あわてて入ると、居間パーラーにはまゆを逆立てたけいのイライザとのアナベルがいた。

「あたしの絹のくつした、どこにあるの!? 花のしゆうのやつ!」

「それは、お義姉ねえ様のチェストの二段目の引き出しに……」

「場所を教えるんじゃなくて、言われたらすぐ持ってきなさいよ! 気がかないわね、グズが!」

「す……すみません……」

「あらあら。アナベル、しゆくじよはそんなに大声を出すものじゃなくってよ」

 とうする義姉を、継母がたしなめる。私がほっとしたのもつかの間、

「そういえばミシェル。今朝の目玉焼き、黄身が固すぎだったわよ?」

「それは、昨日お継母かあ様が半熟はおいやだとおつしやったので……」

「好みなんて気分によって変わるでしょう? 作る前に食べる人にくのが親切というものよ? アナベルの言う通り、貴女あなたは気が利かない子ね。母親の教育が悪かったのかしら」

「そ……っ」

 私はとつり返そうとした声を、必死で飲み込んだ。逆らえばさらひどい目にうってわかっているから。母の悪口はこれ以上聞きたくない。

「……申し訳ありません。これからは気をつけます」

「いつも反省だけは立派よね。結果がともなえばいいのだけれど。貴女は本当にテナー家のお荷物ね」

「早く靴下持ってきてよ! お母様とお出掛けするんだから!」

 深々と頭を下げたままくちびるむ私に、冷たい言葉が降りかかる。八年前母が亡くなり、が明けきらぬうちに父とさいこんした継母と、その連れ子である私と一ヶ月しか誕生日の変わらない義姉。くりいろ榛色ヘーゼルひとみへいぼんな容姿の私とちがい、きんぱつへきがんうるわしい母娘おやこ。彼女達がこのしきに来てからというもの、私は父から見向きもされなくなった。

 ……いや、違う。最初から私は父に好かれてなどいなかった。

 父ロバートと母アンジェラの結婚は、祖父の決めたことだった。私にとっては陽気でやさしい祖父だったが、父にとっての祖父は、趣味のために世界を飛び回り、家庭をかえりみない最低の父親だったという。父がまだ十代のころ、骨董品の買付に出掛けている最中に祖母が亡くなり、何ヶ月もれんらくが取れなかったことが決定的だった。

 それでも、家長制度の強いフォルメーア王国では、父親の権力は絶対だ。ロバートはしぶしぶながらも、自分の父が連れてきた女性アンジエラを妻にした。

 ……そんなふうの間に生まれた、母とうりふたつのむすめを父が愛するはずもなかった。

 新しい家族が増えて、我が家の暮らしはますますひつぱくした。

 まず、給金をとどこおらせながらも散財をやめない当主とそのにいづまと娘のぼうじやくじんぶりに、先代から仕えてくれていた使用人達がげ出した。当然のように家事を押し付けられた私は、毎日の水仕事で手はれ放題。食事は家族の残り物しか口にできないので、はだかみも栄養不足でボロボロだ。

 母が私の為にとのこしてくれていたわずかばかりのドレスやアクセサリーも継母と義姉にすべてうばわれ、私は古い衣類を何度もつくろいながら身につけている。私がやといの仕事に出て手に入れた少しの給金も、翌日には消えている。母が生きていた頃はまだ貴族屋敷のていさいを保てていたが、私一人ではもう限界だ。不安と絶望に押しつぶされそうな毎日。

 ……でも、そんな私にも希望はある。

 三日後の十八歳の誕生日に、母が作ってくれた私あてしんたく財産が受け取れるようになるのだ。さとい母は、自分が亡くなった後のじようきようを予見していたのかもしれない。

 ねむれない夜は、屋根裏部屋のすみで母からもらった小箱を開ける。私の最後の宝物。そうしよくのない古ぼけた材の箱は、幸運なことに継母達の興味をかなかった。

 節約の為にろうそくは使えず、窓から差し込む星明かりの下で折りたたまれた用紙をそっと開く。けいやく書に書かれた母の文字を見ると、心が温かくなる。

 私が大切にされていたあかし

 大きな額ではないけれど、これを持って私は家を出る。名前ばかりの子爵家の地位などいらない。王都をはなれ、新しい人生を歩もう。そう思っていたのだけれど……。

 ──私のささやかな夢は、最悪の形で裏切られた。



「ミシェル、お前は今日からガスターギュ将軍の屋敷にほうこうに出なさい」

 しよさいに呼び出された私が父にそう告げられたのは、誕生日当日のことだった。いつしゆん、何を言われたのか解らなくて頭が混乱する。

「ほう、こう……ですか?」

 けに聞き返した私に、父はおうよううなずいた。彼のとなりでは、継母と義姉が並んでニヤニヤ私を見ている。

「そうだ。ガスターギュ将軍、お前も聞いたことがあるだろう。彼の家で住み込みの使用人をしゆうしていたんだ。そこで働きなさい」

「ガスターギュ将軍って……」

 昨年、りんごくとの戦争を終わらせた功労者。しよみんの出で、雑兵からうでいつぽんで将軍にまでのし上がった救国のえいゆう怪物トロルのようなきよふうぼうで、せんひとりで敵をけむりに変える様は『戦場の悪夢』と呼ばれ、敵軍どころか味方までふるえ上がらせたという。

 そんなおそろしい人の家に、どうして私が?

「お父様、どういうことでしょう? 使用人って……?」

 察しの悪い私に、父はいらちのため息をき出す。

「実は先物取引で失敗して借金ができてしまったんだ。だからお前を働きに出すことに決めた」

「そんな……」

 私は言いかけて、ふと気づく。

「し、信託財産! 私には、母の遺してくれた信託財産があります。それを使えば……」

 あれは私の独立資金だったけど、家族の一大事なら仕方がない。喜んで差し出そう。気の利かないお荷物と言われ続けてきた私だけど、ここで役に立てれば家族に認められるかもしれない。……お父様も、私を見てくれるかもしれない。そう思ったのに──

「あんなはしたがね、物の足しにもならなかったさ」

 ──希望はもろくもさんした。

「ど……どういう意味でしょうか?」

 ますます混乱する私の足元に、父が何かをほうった。カツンとかわいた音を立ててゆかに転がったのは……あの無垢材の小箱。そんな……。いつの間に……?

「あんなみすぼらしい箱を大事にしてるから、あやしいと思ってたのよね」

 アナベルがせせら笑う。小箱を拾い上げる指先がおかしいくらい震えている。何もかもが悪い夢のようだ。最後のどころさえ奪われていたなんて。

「もうガスターギュ将軍からたく金をもらってしまったんだ。いまさら反故ほごにはできない。ミシェル、家族の為にがんってきなさい」

 聞き分けのない子どもをあやすようにさとされ、息が苦しくなる。

 どうして? どうして私が? 泣きそうになりながら目を向けると、継母と義姉はこの上なくうれしそうに、

「これは家長の命令ですよ、ミシェル。まさか嫌だなんて言わないわよね?」

「あたしはしようかんの方が高く売れるって言ったのに。お義父とう様ったらお優しいんだからぁ」

 ……っ!

 な言葉に足元がくずれる感覚がした。

 ……売られた。働きに出すなんて聞こえのいい言い方をしたって、借金のかたにされたことには変わりない。私、家族に売られたんだ。継母と義姉と……実の父に。

「さあ、早く行きなさい。先方にめいわくけないようにな」

 父のげんのある声が、追い打ちをかけてくる。

「はい。……お世話になりました」

 ……もう、どうだっていい……。

 逃げる気力すら残ってはいなかった。私はほんの少しの私物を小さなかばんめて、テナーしやくていを後にした。

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