普通= - 9日目 -
行きたくない行きたくない。昨日家に帰ってからというもの、自分の行いが恥ずかしくてしょうがない。あいつも同じだろうが、俺は今日あいつとどう顔を合わせればいいのか? 普通でいることは無理だ。ああ行きたくねぇ。
「ほらぁ、行くわよぉ光ちゃん」
俺の気持ちなど考えもしない母親が玄関で俺を呼んでいる。もうこうなったらどうにでもなっちまえ。何とかなるさ、気持ちをポジティブに! そんなのいきなりは無理だ。
俺みたいな不器用なやつは階段を一段上ることも簡単ではない。そんな俺が一段飛ばし、ましてや二段飛ばしで階段を上ることなど出来るわけない。自分に対する皮肉も昨日こっぴどく怒られた後だとただの冗談だと受け止められる。階段を上ることが難しいのなら自分で何とかしなくてもいい、誰かを頼っていい。そうすれば一段飛ばしでも二段飛ばしでもできる。そう教わった、怒られた、気づかされた。ならば何かあってもあいつがいる。そう思っていると俺の心は軽くなる。頼ってくれと言ったんだ、こうなったらとことん頼ってやるよ。
「遅い! 遅刻するわよぉ」
「快速でよろしく」
「電車じゃないんだからそんなの無理、遅刻しようが私は平常運転だからねぇ。・・・光ちゃん」
「なんだよ」
運転中さほどの時間もないのに俺に何かを聞いてくる。
「やっぱり昨日何かあったでしょ?」
「だったらなんだよ」
「いやぁね、昨日と今日で光ちゃん雰囲気全然違うから」
「そうか?」
「親の目を誤魔化せるとでも?」
「察しろ」
俺の口からは言いたくない。言うと多分自分で恥ずかしくなって学校に行きたくなくなる。まぁ車に乗った以上、学校に行くことは避けられないのだが。
「ふふっ、まぁいいわ。詳しくは聞かない。聞くのは野暮なんでしょ?」
「わかってんなら聞くなよ」
「あははっ、・・・よかったわねぇ。答え、見つけたんでしょ?」
「・・・まぁな」
「じゃあそれに近づけるよう精一杯学校生活を楽しみなさい。後悔なく」
「ああ、ていうか聞かねぇんじゃなかったのかよ」
「あれぇ? そうだったっけ? あははっ」
はぁ、やっぱりこの母親に隠し事は無理だ。なんで俺の考えてることがわかるのかねぇ? 何してもバレるし、テレパシー能力でも持ってるのかと疑いたくなるほどだ。
確かに答えは見つかった。あとはそれに近づけばいいだけ。自分だけでなく周りも頼りながら。
俺は普通じゃない。だから普通に生きなくていい。それを支えてくれる人がいる。その人たちによって俺の生活は変化する。協調を大事にしながら周りに頼り決して自分一人で抱え込まない。そうすれば悲観的にも被害者ぶることもなくなる。
俺が得たこの答えが最適解かと言われると多分違うだろう。もっとやりようはあったはずだ。不器用な俺なりに考え、得た結果がこの答えだ。そしてそれを実現することは簡単じゃない。自分で自分のハードルをぶち上げた感じだ。でもそれゆえにやりがいはある。やってみたいと思う。もうあんな過去とは決別したい。だったら自分から行動するしかない。そうしないと周りもついてこない。俺を支えない。
止まっていた時計の針はここから動き出す。
× × ×
学校に着くといつも通り一条、渡の出迎えがある。
「おはよ! 矢島君」
「よぉ光ちゃん」
そして今日は木曜ということもあって、慎の姿もあった。向こうはあくまでいつも通り接しようとしてくる。だから
「おっす、じゃあ道案内頼むわ」
「わかった」
「うん」
俺は頼む、教室までの道案内を。今までは言われるのを待っていたがこれからは言うほうへ。
「ねぇねぇ、昨日何話したの?」
「あー、いや、ちょっとな」
「光ちゃんがどうしようもない馬鹿だったから叱ってやった」
「てめぇっ!」
あんなことを事細かく話されては俺の居場所がなくなるので慎に静止を求める。
「なになに? 聞かせて! 渡さんも聞きたいって」
「言わねぇよ。それに、馬鹿はお互い様だろ」
「そうだな、俺もお前も大馬鹿だな」
「馬鹿? 二人とも―――」
「光ちゃん、早くしないと遅刻だ!」
「やべぇな、急がねぇと」
「ちょっと、待ってよー!」
これ以上はまずいと思ったのか、慎は話を切って俺の手を引っ張り教室へ急がせる。正解だな、一条がいると根掘り葉掘り聞かれそうだから。
教室に入ったのは時間ぎりぎりだった。なんかすみません、俺が来るのが遅かったせいで。時間と関係あったかは分からないがこの時入った教室の様子は、何かいつもと違うように感じた。俺が教室を『見て』こなかったからか? だとしたらこれが普通の教室なのか?
このクラスに入って一週間過ぎて、今更だが俺は初めて教室を『見た』。でも昨日と今日では教室は特に何も変わっていない。ただ、聞こえてくる声、音、何もかもが今までと違うように感じた。
× × ×
今日一日は教室を『見る』ことに徹底していた。これまでも何回か『見る』と使っているが、最初に言ったように俺は目が見えない。じゃあ何を『見て』いるのか? 俺は向き合っているのだ。この教室と、このクラスと、自分自身と。一日じゃとても見切れないが少なくともこのクラスの印象は、今までと違い多少ではあるがいいと思う。それは慎がいるからでも一条、渡がいるからでもない。率直な俺の感想だ。例えば俺がクラスの人に頼みごとをしても、クラスの人は快く引き受けてくれる。佐藤なんかは特にそうだ。あいつは委員長という立場でもあるからだろうが、俺が佐藤に頼みごとをしてみてもあいつは一切断らずに承諾してくれる。
そして俺は今日一日『見る』ことに加えて『頼む』ことも積極的にやった。移動教室の付き添いとかトイレとか、落とした物を拾うことまで、そして分かった。クラスの生徒は俺を避けていないということに。まだ一日だけだから信用に足るかは不安だが、少なくとも前とは違うという結果を得た。周りが俺に近づこうとしているのなら、俺もそれに応えなければならない。ならば努力しよう。周りの努力に応えよう。
× × ×
放課後、俺たちはいつものように帰路につこうとする。今日は部活がない慎も一緒だ。俺たちが教室を出ると
「あーちょっと待ってお前たち。ちょうどよかった」
この声は間違えようがない。
「早川先生、待ち伏せしてましたね」
慎が答える。まぁこんなにもタイミングよく会うなんてことなんてそうそうないので待ち伏せしていたのは間違いないだろう。
「ちょっと先生と一緒に来てもらえるか。四人ともだ」
なんで呼ばれたのか皆目見当がつかない。何かやらかした覚えは全くないしな。
「先生、どうして私たちも?」
「ちょっと待て、今の言い方おかしくねぇか? まるで俺たちが何かやらかしたみてぇな言い方じゃねぇか」
「え? 違うの?」
「ちげーよ、何もしてねぇよ」
「光ちゃんは知らないけど俺は何もしてないよー」
「俺を売るんじゃねぇ!」
一条が変な疑いを持ったことも、慎が俺を売ったこともまぁ許せる。だがそれらの元凶であるこの先生は許さねぇ。何で俺たちを呼び出したんだと言おうとしたが、先生は俺たちの前で鼻歌を口ずさんでいた。なるほど、鼻歌を歌っているってことは少なくとも怒られる心配はなさそうだ。そもそも怒られる謂(い)われはないが。
ある程度歩いたところで先生が立ち止まる。
「ほら入れー」
この教室は入ったことがないので何の教室だかさっぱりわからなかった。
「なぁ、ここどこだ?」
一緒に連れてこられた三人に聞く。
「進路指導室・・・かな?」
「何で疑問形で返すんだよ」
慎が答える感じ、進路指導室なのは間違いなさそうだ。だが疑問形で返された意味が分からない。
「えーっとね、進路指導室なんだけど・・・」
一条も変な返し方をしてくる。ますます意味が分からない。二人で俺を嵌めようとしているのか? ついさっきやられたからな。警戒しておこう。
「光ちゃんならどこまで許せる?」
「いきなり何言いだすんだよ」
許されないものでも置いてあるのか? まさか・・・
「とりあえず想像してみてよ。左側の壁一面に赤本」
「許せる」
当然だな、進路指導室なんだし。逆にこれ置いてない進路指導室が許されない。
「反対側にコーヒーメーカー」
「許せる」
「え? 許せるのこれ・・・」
一条が疑問を持ったが俺はまだ許せる。進路指導が長くなるときに先生がコーヒーでも出すのだろう。それに、職員室にも大体置いてあるし、俺の勝手な想像だが。
「部屋の端にエレキギター」
「許せる」
「これも許すんだ・・・」
一条はアウトなのだろうが俺は許せる。文化祭の時にでも使うのだろう。確かバンド発表あった気がするし、先生が飛び入り参加ってこともある、俺の勝手な想像だが。
「机の上に戦車のプラモ」
「許せる」
「もういい・・・」
一条が反論をあきらめたようだ。戦車のプラモとか男のロマンだろ。別にいいと思うが。職員室の自分の机にちょっとしたぬいぐるみ置くのと同じ感覚だろ、俺の勝手な想像だが。
「振り返ってみると某アニメのでっかいタペストリー」
「アウト」
「やっと・・・」
これはさすがに許されない。進路指導室の私物化だろこれ。
「なんでだよー、校長にも許可取ってるんだぞー」
「マジっすか・・・」
この高校の教職員は揃って頭おかしいのか。それを許す校長とか威厳も何もねぇ。
「この高校は自由を謳っているんだ。だったらそれは生徒だけじゃなく、教職員にも適用されて然るべきだと俺は主張したい!」
「ダメだこの人・・・」
よく今まで先生やってこれたなと言いたいがもう突っ込む気も失せた。慎ですらお手上げ状態だ。先生の主張はほっといて本題に入ろう。
「先生、どうして俺たちを呼んだんですか?」
「まぁとりあえず座れ」
先生に促されたので席につく。全員が席についたところで先生が話し始める。
「さて、今日どうしてお前らをここに呼んだか、理由分かるかー?」
「だからそれを聞いてるんですよ」
話通じないなこの先生。反論したら負け、突っ込んだら負け状態なのでもうこれ以上は言わない。
「わかりました! 文実!」
「はい一条減点、さすがに早すぎ」
これだという回答をしたつもりだったのだろう。それが違っていた一条は「そんなぁ」と言ってしょぼくれてしまった。
「じゃあ何ですか?」
今度は慎が早川先生に問う。
「お前らは『会話』できてるか?」
唐突に変なことを聞いてきた。当たり前な質問のように思えるが
「客観的に見た俺の答えはノーだ」
言わんとしていることは分かる。『会話』とまではいかない。ただ話すことはできている。それでいいのではないか?
「お前らにはちゃんと『会話』をしてほしい。お互いに、間を挟まずに」
多分それは俺と渡に対して言っているのだろう。俺は目が見えなく、渡は耳が聞こえない。こんな二人の間では『会話』どころか『話』すら成立するはずがない。
「これは矢島と渡だけの問題じゃないぞ。瀬戸と一条、お前らもそうだからな」
どういうことだ? 慎と一条もなのか? 二人は『会話』出来ていると思うが。それは互いにだけじゃなく俺たちに対してもだ。
「本当の意味で『会話』出来ているか? それをしっかり考えてみろ。それでだ、矢島と渡が間を挟まずに話す方法は何があると思う?」
俺と渡が間を挟まずに話す方法、考えたこともなかった。でも考えてみればこの問題は遠からずぶつかる問題だったのだろうと思う。俺は協調性を持てと言われた、その面から言えば、まずクラス全員と話せるようにならなければならない。そう、クラス全員だ。当然渡もいる。いつも慎や一条がいてくれるとは限らない。だから俺と渡の間で話が出来るようになる必要がある。
「矢島君は音を聞いて、渡さんは目で見て話しているんだよね・・・絶対無理な気がする」
「手話・・・点字・・・声」
一条がお手上げモードの中、慎が一つ一つ例を挙げている。手話は渡が話すときに有効だ。しかし手話をしても受け手の俺には何を伝えたいのかさっぱりわからない。次の点字は俺がかろうじて読める程度だ。話す方法としては適切ではないだろう。最後の声は渡が嫌がるのではないか? 以前車で送られていた時も自分の声を隠していた。嫌なことを強要してまで話したいとは思わない。
「瀬戸の考えで大体合ってる、ということで俺からお前らに特別課題を出す。期限は・・・夏休み明けまでにするか。矢島は手話を覚える、瀬戸はそのサポート、渡は声で話す、一条はそのサポート。そして、期限までに間を挟まず話せるようになること。オーケー?」
早川先生が考えをまとめるようにして言う。何かあらかじめ用意されていたもののように感じたがまぁそこはいい。問題は他にある。
「人がして嫌なことを強要してまで俺たちに話させようと?」
あえて具体的なことを言うのは避けておいた。それすらも相手を傷つける要因になりうる。
「そうだ。好きで勉強してるやついるか? 嫌な勉強をすることによって成長する。それと同じだよ」
教師がそんなこと言っちゃっていいのか? でも言わんとしていることはわかる。
「嫌なことという壁を乗り越えてこそ、その先に求める答えがあるってわけよ」
確かに早川先生が言ったとおりだ。俺たちが話をするうえで存在する壁は目が見えないこと、耳が聞こえないことである。これらは乗り越える壁だ。それプラス渡には声というコンプレックスが、俺には過去に負った傷という壁がある。これらは克服する壁だ。その壁を克服し乗り越えることによって俺たちは話をすることができる。
「わかりました。やるだけやってみます」
「俺もできる限り光ちゃんのサポートをするよ」
「私も渡さんのサポート頑張る!」
俺の答えに続いて慎、一条が賛同する。あとは渡の答えを待つのみ。
「怖い、みんなの前で声を出すことが・・・か」
渡の代わりを早川先生が代弁する。これを聞いて理解した。やはり渡も俺と同じだ。障がいを持っているがゆえに差別を受ける。どこにいてもそれは変わらない。なぜ人は自分たちと違う者を排除しようとするのか? まったく腹が立つ。でも過去を今更振り返ったところでこれらが変わるわけではない。この感情は内にだけに留めておくとしよう。
「渡、お前の言うことはよくわかる。お前の越える壁はそれだ。それを越えない限り、課題は達成されないぞ」
普通なら寄り添うものだが早川先生は突き放しにかかった。これが早川先生なりの優しさなのか。俺たちのような障がい者は様々なところで優遇、譲歩されている。俺にはそれがかえって迷惑だった。周りと違うことを誇張させているような気がしてならない。
それを考慮してか、早川先生の今の発言は俺たちを普通に扱うように徹底している様子がうかがえた。そのうえで俺たちにも普通であってほしい。そのために俺たちにこの課題を持ちかけたのか? だとしたら早川先生は俺たちのことが相当よくわかっている。まるで経験したかのように。
「わかりました、よし、これで全員の承諾を得たな。じゃあお前らで頑張ってくれ。結果を楽しみにしてるぞ、はい解散」
話が通ったかと思えばその話をさっさと切りにかかった。「はいとっとと出る」と言って俺たちを部屋の外に出そうとする。
「ちょっと待ってください! まだ聞きたいことが―――」
「俺は残業しない主義なんだ。それに、どうすれば話すことができるのか、お前ら自身で考えることにも意味がある。それを理解できるかも含めて答えを出してくれ、じゃあな」
一条がまだ聞こうとしていたが、早川先生はそう言うと進路指導室の鍵を閉めて行ってしまった。
「何だあの先生。考えがわからん」
「あの先生も先生なりの考えがあるってことでしょ?」
思わず出てしまった俺の声に慎が答える。慎もこうは言ったがその先生の考え自体は分かっていないようだった。
「ねぇねぇ、この後どうする?」
「どうするって、帰るだろ」
「えー?」
どうするか一条に尋ねられたので素直に答えたが、どうやら一条は納得がいかないらしい。
「渡さんはどう思う?」
「・・・みんなに合わせる。よし、それなら帰るか」
慎がこう言ったので帰ることになったようだ。一条はまだ納得していないようだったが、今日はこれ以上のこと考えても仕方ないだろう。それに先生から出された課題の期限は夏休み明け。まだ十分時間はある。
「みんなで光ちゃんの家に行くぞ、いいよな?」
そうして俺たちは帰路につく・・・、いや待て、帰路につくの俺だけじゃん。何で皆さん俺の家に来るんですか? 何でそうなった?
「何でそうなる?」
思ったことがそのまま言葉に出た。
「大丈夫、アポは取ってある」
「いやよくねぇよ。ていうかいつアポ取ったんだよ」
「やったー! じゃあみんなで行こう!」
「俺の話聞けよ・・・」
俺の話を全く聞かずにどんどん話は進んでいく。渡も賛成なようでみんな乗り気である。会話しろって課題出されたばっかりなのにこれかよ。先行きが不安でならない。
そういえば早川先生は最初こそ『会話』という言葉を使っていたが途中からは『話』に変わってたな。確かに『話』と『会話』では意味が違うのは分かる。夏休み明けまでに『話』が出来るようにする。そのあとにあるのが『会話』をするということなのか。でも『会話』するということが俺たちに可能なのか?
考えようと思ったが今日はすごく頭使ったのでもう疲れた。よってこれについて考えるのはやめよう。それよりもまずは目先のことだ。
「今日はお世話になります!」
「いいよいいよぉ、慎君の頼みならね。それに、一条さんと渡さんも大歓迎よ」
「俺は歓迎してねぇぞ」
「固いこと言うんじゃないわよ。このこのー」
「やめろ! いつもいつも」
頭ガシガシされたのでその手をどかす。最近これやられることが多くなった気がする。もうほんとやめてほしい。
「それじゃあ家までレッツゴー!」
「オー!」
母親の声に一条が応え車は出発する。どうやら今日はまだ終わりそうにない。長い、もう疲れた、帰りたい。あ、俺は帰るんだった。
× × ×
「お邪魔しまーす!」
一条と慎がその声とともに家に入っていく。
「どうぞ上がって、ゆっくりしていってねぇ」
俺はゆっくりできねぇよと文句を言いたいが追い返すわけにもいかない。それ以前に文句言ったら母親に倍返しされるのは分かっている。しかもそこにからかい上手の慎が加われば二重の口撃がされる。もう詰んでるじゃん。
「飲み物何がいい? お茶? ジュース? コーヒー?」
一条はジュース、慎はコーヒーと答え、渡はどうやらジュースを選択したようだった。そしてテーブルの上にそれぞれ飲み物が置かれる。
「ありがとうございます。おいしいです」
慎がこう答える。まぁうち何かとコーヒーこだわりあるからなぁ、主に父親の影響だが。
「おうち広いですねー」
「そうでしょ。これ結構奮発したのよ」
うーん、家を奮発したって日本語あまりピンとこないがまぁいいや、いつものことだし。
「久しぶりに来ましたけど・・・、手すりあったり段差少なかったり・・・」
「あれは光ちゃんの目が見えなくなってからリフォームしたのよ。まぁ変わったわねぇ」
慎はずいぶん前にうちに来たことがある。まだ俺の目が見えていたころだ。その時と比べればだいぶ変わっていることは俺でもわかる。玄関の段差はなくなり廊下には手すりが付き・・・、ほかにも諸々あるが列挙するとキリがないのでこの辺で。
それよりさっきの母親の最後の発言が気になった。慎が来たから昔の家の光景でも思い出しているのだろうか? おそらく慎も。バリアフリーにしたと言えば聞こえはいいが、昔と今ではその光景は大きく変わっている。家もまた普通ではなくなったのだ。
「それでぇ、今日はまたどうしてうちに来ようと?」
話題がこのまま脱線していこうとしたところを母親が元に戻す。俺も気になっていた。どうしてうちに来る流れになったのか? いや、これは俺の疑問であって母親の疑問はどうして『今日』うちに来たのかだろう。うちに来たそもそもの理由ではなく、『今日』うちに来た理由を聞いているに違いない。言い方が抽象的すぎて何言っているのかわからないことがこれまでもあったが、さすがに長く付き合っているだけあってもう慣れた。果たして慎にはわかるか?
「えーっとですね、今日学校で先生に特別課題を出されたんです。それについて考えようとここに来た次第です。図書室は閉まっていましたし、教室というわけにもいきませんでしたからそれなら・・・ということで」
すごいな、母親の出した問いの意味を理解するとは。俺にもそんな力があったら今まで様々な問いに悩まされることもなかったろうに。素直に尊敬するわ。
「なるほどねぇ、で、その特別課題ってのは?」
「はい! 夏休み明けまでに矢島君が手話を覚えて、渡さんが発声練習をするってものです!」
「補足すると、互いに間を挟まず会話できるように、とも言っていましたね」
さすが慎のフォロー。理由くらい覚えといてくれよ一条。
「ふーん、どうやらその先生、あなたたちのことをちゃんと考えているようねぇ、安心したわぁ」
母親のその発言に一条がうん?と首をかしげたようだったが、少なくともその特別課題について母親は納得してくれているようだ。俺も早川先生は俺たちのことをしっかり考えていてくれると思う、少なくとも前よりはずっとマシだ。あの先生の自由奔放さは不安材料だが。
「その課題、夏休み明けまでなんでしょ? だったら一日でどこまでやるってノルマ決めてやったらどう? それで慎君の部活がない毎週木曜日に成果をお互い見せるってのは?」
「それもらいます。みんなもそれでオッケー?」
母親の提案に慎がすかさず乗っかる。一条は「オッケー!」と返し、渡も反論しなかったのでこれで決まりそうだ。まぁ俺も木曜、それに限らず毎日放課後は暇なので反論はしない。
「よし、これで決まり! ということで毎週木曜よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
「ちょっと待て、まさか毎週木曜うちに来るつもりか? そんなのいいわけ―――」
「お願いされましたぁ!」
俺の意見そっちのけで決まってしまった。そして俺は理解した。慎、一条、母親、この三人を組ませるともう終わりだということに。なんでこんな息ピッタリなんだよ・・・。
「ただいまー、あれ?」
誰かが家に入ってきた。この声は聞き間違えようがない。
「お母さん、そちらの人たちは・・・」
「光ちゃんのお友達。お帰り、かえで」
「お兄ちゃんにお友達?」
お友達と言える関係かどうかははっきり言えないが何かすごく失礼なこと言われた気がする。
「初めまして、私一条心愛でーす! こっちが渡奏ちゃん」
「久しぶりかえでちゃん、慎だよ」
「えぇ⁉ 慎さんですか⁉ すっごく久しぶりです!」
「いいから荷物置いてこい」
俺がこういうと階段を駆け上がっていった。
「あの子は私の娘で光ちゃんの妹、矢島かえで。みんなとは3歳違い・・・かなぁ?」
「へぇ、そうなんですか。なんかすっごく元気ですね」
「何言ってんだよ、かえでは2歳違いだぞ。自分の娘の歳も忘れたのかよ」
「あれ? そうだったっけ? あはは」
誤解を生みかねないので正しい情報を。かえでは俺たちとは2歳違い、今は中3だ。帰ってくるのが遅いのは部活をやっているからである。ちなみに部活はバスケ部、エースである。
そんな会話をしているときに階段を下りてくる音がする。
「えーっと、私矢島かえでです。よろしくお願いします」
「よろしくー。あとそんなに緊張しないでいいよ、タメ口全然オッケー!」
「いえいえ、皆さんは先輩なので」
「じゃあ私たちはお姉ちゃんということで!」
「えーっと、じゃあ・・・心愛さん? 奏さん?」
「うーん、まぁいいかな」
なぜかかえで相手にものすごくグイグイくる一条。後輩を持つことがそんなに嬉しいのか? それとも自分がお姉ちゃんになったことがそんなに嬉しいのか? 俺にはわからん。
「それで皆さんはどうしてうちに?」
「それはお母さんが説明しよう!」
急に出てきて説明をし始める母親。かえでが来たことによって自分のポジションが奪われると思ったのか。自分のポジションってなんだよ。
一通り説明を終えるとかえでは
「へぇ、それ、かえでも参加していいですか?」
意外に乗り気だった。
「いいよ、それに家で光ちゃんがサボらないか見ていてほしいしね」
慎がこう答えたことによってかえでも特別課題に参加することになった。俺の監視役ってのが解せないが。
「それじゃあまず手話からかな? 渡さん、『こんにちは』ってこれでオッケー?」
母親が手話で『こんにちは』と渡に伝える。渡はそれに「うん」と声を出して答えた。課題をする以上双方やるべきことをやる必要がある。俺たちは手話で、渡は声で話をする。でもそれ以前に渡は母親が手話で『こんにちは』をしたことに驚いたのだろう。俺も驚いている。いつ練習したんだよ。さてはこの課題が出ることをわかっていたのか? それを見込んで俺たちを家に呼んだのか? エスパーだな、先読みしすぎだろ、将棋でもそんなしないぞ。
「はい光ちゃんもやるやる」
そう言われると手を掴まれ強引に動かされる。そして出来たのは右手人差し指と中指を立てて眉間に当てるポーズ。そのあとまた動かされて今度は両手の人差し指を立ててそれを折り曲げるポーズ。
「これが『こんにちは』。わかった?」
母親に言われ、俺はもう一度『こんにちは』の手話をやろうとする。しかし目が見えていない分、各動作の詳細までは分からない。ガチャガチャ動かされたとおりにやってみることにする。するとその動作が違ったのか両手の人差し指を立てるときその手の位置を修正された。この時俺の動きを直したのは誰かが俺にはわからなかった。母親は俺の後ろにいるから違う。手は正面から伸びているように思えた。同じ理由で慎も違う。慎は俺の横にいる。だがその答えはすぐにわかることになる。
「渡さんが直してくれたんだからもう間違えないでしょ」
俺の手を直していたのは渡だった。母親から聞いてしまったので手を変に意識してしまった。
「わかったよ。もう間違えねぇ」
それを隠すように答える。もう間違えようがない。
「これがこんにちは・・・」
「渡さん、こんにちは。かえでちゃん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
慎が「ほう」と言いながら答え、一条は渡とかえでにそれぞれこんにちはをする。それにかえではぎこちなく返す。まぁかえでがぎこちなく返しているのは手話が難しいからではないだろう。ああ見えてかえではシャイだからなぁ。ぎこちなくなるのもわかる。
「渡さん、『さようなら』は?」
一条が渡に問いかける。
「へぇ、『さようなら』って手を振るだけか。変わらないな」
慎がそう言ったので俺も手を振る。しかし何がいけなかったのか渡に笑われた。ついでにかえでからはお兄ちゃん・・・と呆れられる始末だ。言ったとおりにやったのに・・・。
「俺の言い方が悪かったな。右手で小さく手を振るんだよ」
「おいそれ早く言えよ。赤っ恥かいたじゃねぇか」
本当に赤っ恥だ。俺は両手で手を振っていた。そら笑われるよ。
「渡さん、確か『さようなら』と『またね』って手話違ったわよね?」
母親が渡に尋ねる。返答からしてどうやらそうらしい。俺はまたしても強引に手を動かされ『またね』のポーズをとる。右手を握った状態から傾けると同時に人差し指と中指を出して数字の2を出し、そのあと両手の人差し指を立ててそれを自分側、正面の相手側から近づける、これが『またね』の手話らしい。母親から動かされたまたねを何とか反復しようとするがまた渡に修正される。これだけ動かされればさすがに慣れてきた。変に意識することはなくなった。・・・嘘です、めっちゃ意識してます。
とりあえず『こんにちは』『さようなら』『またね』、この三つの手話は何とか形にすることができた。
「すっかり暗くなっちゃったわねぇ。そろそろお開きでいい? 親御さんが心配するだろうし。みんなはわたしが送っていくわぁ」
「そうですね、すみません、今日はありがとうございます」
「ありがとうございます」
慎、一条がそれぞれ答え、帰る準備をして玄関に差し掛かる。一応のお見送りはしておくか。
「じゃあな光ちゃん、また明日」
「矢島君、かえでちゃん、またね」
慎と一条が揃って覚えたての『またね』の手話をする。俺とかえでもそれに手話で返すと渡もそれに答えた。
三人と母親が家を出て、残ったのは俺とかえでの二人。
「ねぇ、あの人たちってお兄ちゃんのお友達?」
「どうだろうな、俺にもわかんねぇ」
実際そうだ、もう新しいクラスになって一週間が経つ。だが俺に話しかけてくるのはあの三人しかいない。じゃあそれは友達かと言われると何か違う気がする。親しく話しているから友達と簡単に定義づけてはいけない。だけど
「今までのやつはかかわりを持ってはいたが俺を見てなかった。目が見えなくなった表面上の俺しか見てなかった。だから表面上の関係でしかなかった。俺はそれが嫌だった。だから俺のほうから関係を絶った。それが原因でああなったんだけどな。でもあいつらは俺を真剣に見てくれている。表面上の関係でもなく普通ともちょっと違う。特別扱いされるのはあんまり好まなかったが、まぁあいつらなら・・・いいんじゃねぇか?」
「何言ってるの? 意味わかんない」
「長々と語らせといてそれはねぇだろ」
「そんなの自分で勝手にやったことじゃん。でも、よかった。お兄ちゃんにも頼れる友達ができて」
「だからわかんねぇっつーの」
「かえでから見たら十分すぎるくらい友達やってるよ、表面上でもなく普通でもない・・・やっぱ何言ってるかわかんない」
「途中で言うの諦めんなよ」
そういうと急に体に衝撃が走る。
「なんだよ、急に」
「ううん、なんだかさっきのお兄ちゃん、昔みたいに見えたから、・・・嬉しくって」
そうだ、かえでは昔の俺を知っているんだった。ずっと俺のそばで俺を見てきた。目が見えなくなる前の俺も、見えなくなってからの俺も。ずっとそばで見てきたから、あの時から俺とは距離を置いていた。俺を考えてのことだろうとは思う。その俺が友達を連れてきたとなれば、当然かえでは警戒する。だから一緒にいたのか。そして三人を自分の目で見て信頼できると判断した。そこには葛藤があったと思う。ゆえに、抱きついて涙を流しているかえでの頭を撫でてやって「心配するな」と言ってやる。
「俺は自分を変えることにしたんだ。あいつらを見て・・・、実際には見えていねぇがとにかく、そうしなくちゃならねぇって一歩が踏み出せた。かえで、お前には苦労かけたな」
「苦労かけっぱなしだよ」
「おいそこは全然だよって否定するもんじゃねぇのかよ」
「だって本当のことだもん」
「そうだな、・・・そろそろ離れてくれ、服ぐしゃぐしゃになる」
「もうちょっといい?」
俺は何も言わずにただかえでの言うことに従う。かえでとこんなに話したのはいつぶりだろうか。あれ以来かえでとは言葉を交わしても一日に二三言くらいだった。昔に戻ったとまでは言わない、だけど前とは違う。その状況の変化を俺自身も身に沁みて感じていた。
少しするとかえでは恥ずかしくなったのか我に返ったように俺から離れた。
「コップ洗ってくる!」
そういうとそそくさとリビングに行ってしまった。さすがに俺もさっきのこと思い出すと恥ずいな。俺もリビングに戻ってソファーに深く座る。あぁ疲れた。かえでが洗い物をする音を聞きながら俺の意識はゆっくり遠のいていった―――。
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