今日、虹の彼方で(4)

 寝る前に部屋を覗いたら、由布子さんはとっくに夢の中だった。

 安らかな寝顔に、思わず息をしているかを確認し静かに扉を閉めてから、廊下の暗さで気づく。

 隣の仕事部屋から漏れる明かり、まだ電気がついたままだということに。

 由布子さんを起こさないように、物音を立てないように部屋に入り込む。

 机の上のシェードがついた可愛いランプを先に消そうとして、由布子さんが夕飯前に書いていた絵本に目が留まる。

『虹の国の王子様』

 由布子さんの書くお話の中には、王子様が出てくるお話も多い。

 乱雑に広がったページを一枚、一枚並べながらお話を想像しようかとも思ったけれど、表紙以外はまだ真っ白。

 まとめて机に置こうとして、その下にあった赤い革表紙の小さな本が目に入った。

 本? いや、ノートのようだ。

 少しでも乱暴に捲ったなら、全てがバラバラになってしまいそうなほどに古いもの。

 見てはいけないものかもしれない、けれど好奇心が先立ってしまって。

 心の中で『由布子さん、ごめん』と呟いてからゆっくりと開く。


 昭和16年6月5日晴れ

 きっと、あの人だと思うの!

 絶対にそうだと思う、うん、絶対に!

 見つけた、私の王子様!!

 

 それは由布子さんが書いたと思われる長い長い日記だった。

 青春時代の由布子さんが、そこにいた。

 戦時中の見たこともない風景のはずなのに、由布子さんの表現力のせいだろうか。 

 焼け落ちた町の景色や、戦闘機の爆音や、それから風にのった火薬の匂いまでもが、ありありと浮かんでくるようだった。

 その辛い状況下の中で由布子さんときたら、今とちっとも変わってなくて。

 動じるどころか、戦争に怒ってみたり。

 それよりも、もっと人間としての大事な感情が生々しく書き綴られているのだ。

 由布子さんらしい日記に、いつしか私も感情移入していく。

 時に恥じらったり、笑ったり、泣いてみたり。

 由布子さんの日常はとても優しくて愛にあふれていて、そして切なかった。

 

 最後のページに描かれた由布子さんの鉛筆画は、『虹の王子様』の元となるような絵。

 ただしそれには虹の上を歩く王子様はいない。

 虹を見上げるような兵隊さんとおさげ髪の女の子が手を繋いでいる構図。

 そして、一枚の古びた写真。

 ああ、この人が由布子さんの王子様だ。

 そう思ったらもうこみ上げてくるものを抑えきれなくなって。

 由布子さんを起こさないように静かにすすり泣いた。 


『ねえ、どうして由布子さんには王子様がこないの?』

『今はこれないだけなのよ、』

『ふうん?』


 幼い頃、何の気なしにそんなことを言ってしまった私の口を塞いでやりたいわ。

 あの時の由布子さんはどこか寂し気だった。

 由布子さんはずっとずっと待っていたのに。

 王子様が迎えに来てくれるのを今もきっと待っているんだ。

 実家に留まって、松野由布子として、すぐに王子様に探してもらえるように。

 本当はもう来ないってわかっていただろうに……。

 最後まで読み終えて、写真を挟み元通りに机の上に戻す。

 由布子さんの宝物のような時間は、今も色褪せていない。

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