今日、虹の彼方で(3)
仕事帰り、二人分のシチューを冷蔵庫に入れて置いたから、と母さんから連絡があった。
それに合わせて、由布子さんの好きな柔らかなパンも買ってきたし、冷蔵庫にあるトマトとバジルのサラダを作って、と考えながら玄関を開けた。
「ただいま~! 由布子さん?」
リビングは真っ暗だし返事もないから不安になったけれど、廊下の先にある部屋の扉の隙間からぼんやりと明かりが漏れている。
由布子さんの寝室ではない、その真向かいにある私も大好きなあの部屋。
良かった、倒れているわけじゃなさそう、とホッと胸を撫でおろす。
「ただいま」
コンコンと叩いた扉を驚かせないようにそっと開けたら、机に向かう由布子さんの背中が見えた。
「絵本、書いてるの?」
後ろから覗き込み声をかけたら、そこでようやく私の存在に気づいたみたい。
「あら、サナちゃん、いらっしゃい」
一緒に住んで10日経っても、朝の「いってきます」の後、帰ってくるまでの間で、私はお客さんにリセットされちゃう日々に苦笑。
まあ、また説明すればいいか。
「ねえ、由布子さん、これって」
由布子さんの手元には、書きかけの絵本。
表紙には七色の虹とその上を歩く――。
「王子様?」
「そうなの、『虹の国の王子様』よ。もうすぐ締め切りだから間に合わせないとね」
どうやら今日は現役時代の『まつの ゆう』先生のようだ。
この部屋は、由布子さんの仕事部屋。
後ろの壁一面は本棚になっていて、執筆してきた絵本や、由布子さんお気に入りの童話などが並んでいる。
他の三面の壁には表紙になったイラストが、額縁に入れられて大事に飾られている。
小さい頃から出入りしていたこの部屋。
今思えば大事な仕事部屋だというのに、いつも由布子さんは笑顔で招き入れてくれた。
時には仕事の手を休めて、私に童話を読んでくれたなあ。
「あまり根詰めないでね、由布子さん。夕飯、どうしよう? 温めたらここに運んできた方がいい?」
「まあ、もうそんなに暗い時間なの? いやねえ、年を取ると時間の感覚すらなくなっちゃうみたいね。いいわ、今日はもう仕事は終わり。一緒にテーブルで食べましょう」
さあ、と立ち上がる由布子さんが一瞬ふらついて、慌ててそれを支える。
「いやだわ、足まで思い通りに動かないなんて。これじゃあ、日曜日にお庭でピクニックする約束守れなくなっちゃう」
「日曜日は雨みたい。だからその次の日曜にしましょうよ、由布子さん。それまでには足もきっと治るでしょ?」
そんな約束をしたのは私が小学生の頃、もう30年も昔のことだ。
由布子さんは昔のことばかり鮮明に思い出せるみたい。
足元のおぼつかなくなってきた由布子さんを支えて、キッチンにある二人掛けのテーブルにつかせた。
シチューを温めながら、私がサラダを作る姿を嬉しそうに眺める由布子さんは。
「サナちゃんの王子様は幸せね、こんな料理上手のお姫様なんだもの」
「そう? じゃあもっともっと腕を磨かなくちゃ。今日のシチューはお母さんのなのよ。私はパンとサラダだけ。もうすぐ出来るから待っててね」
「まあ、お姫様の作るサラダですって! なんて、素敵なの! 王子様よりも先におよばれなんて申し訳ないけど、楽しみね」
由布子さんは忘れているのか、それとも本当にからかっているだけなのか、クスクスと微笑んでいるから私も笑い返す。
残念ながら、王子様にはまだ巡り合えてないのよ。
正確に言えば巡り合ったと思った王子様は、若くて可愛いお姫様を選んだんだもの。
バツイチ子なしのアラフォーには、もうそんな人は現れないと思うわ。
由布子さんに気づかれぬように、小さく自嘲し、ため息を漏らした。
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