第5話



「これ、見て」

 翌日。わたしは怜を自宅に呼び、写真を見せていた。

「昨日の清田先生。大宮のラブホテルにひとりで入っていくところ」

 怜は興味深そうにデジカメの画面を見ている。「もうひとつ、あるよ」。わたしは、写真を切り替えた。かなりぶれていたが、そこには同じラブホテルに入っていく好美の姿が写っていた。

「こういうホテルって、恋人と一緒に入るはずじゃない? でも、清田先生も好美も、それぞれひとりで入っていった。ふたりは、中で合流したんだと思う」

 目を大きくして写真を見る怜に、わたしは言った。

「前に好美から、カンニングの相談を受けたことがあるんだよ」

「カンニング? 答案を見せろって言われたの?」

「違う。好美は父さんの力を借りて、先生の机とかパソコンから試験問題を盗もうとしてたんだ。付き合いの浅いわたしのところに相談にきたんだから、相当困ってたんだと思う」

「好美、頭は悪くないんだけど、要領悪いからね……」

「ふたりがホテルで会ってるんだとしたら、それが理由かもしれない。好美は清田先生に試験問題を教えてもらって、代わりにこういうことをしてる。もしそうなら、弱みになるよね」

「まあ、そうかもね」

「この写真を持っていけば、きっと先生は、怜の言うことを聞いてくれると思うよ」

「そうかな?」

 怜の反応は、鈍かった。乗ってきてくれると思っていたので、その反応は意外だった。

「そもそも……いまの話、全部憶測だよね?」

「そりゃ、まあ……。ふたりが本気で恋愛をしてる可能性も、あるけどね」

「それ以前に、本当に中で会ってるのかも判らない。たまたま、お互い別の人と待ち合わせをしてたのかもしれない」

「でも、同じ学校の先生と生徒が、同じ時間に、同じホテルに入ってるんだよ? そんな偶然あるかなあ?」

「可能性は低いかもしれないけど、清田が白を切ろうと思えば切れる。それだと意味ないよ」

「そんなこと言ったら、どんな写真撮っても無理でしょ」

「そうかな? ふたりが手をつないで歩いてるところでも撮れれば、言い逃れのできない証拠になるよ」

「ふたりが出てくるまで外で待ってればよかったってこと? 何時間も?」

「そうだね。今回のケースで言えば」

 怜は臆した様子もなく言う。

「惜しいんだよ。もう少し、決定的な証拠が欲しかった。清田が言い逃れできないような」

「ちょっと待ってよ。いくらなんでも、あんな場所に何時間もいるのは無理だよ。勝手すぎない? わたしだって、都合ってものが……」

「あっそ。私は、どっちでもいいんだよ」

 怜はそう言って、親指と人差し指をしゅっしゅっとすり合わせた。彼女の指の腹が、ほのかに赤く染まる。

「今日も好美に学校でいじめられた。日に日に憎しみが強まってる。なんか、色々どうでもよくなってきてる」

「怜……わたしはちゃんとやったじゃない」

「それだよ。みどり、めちゃくちゃセンスあるよ」

 怜はパッと明るい表情になる。

「だって、昨日の今日だよ? なのに、もうこんな写真が撮れてる。すごいよ。天才じゃん」

「持ち上げても駄目だよ」

「本心だよ。本当にすごいと思う。尾行も撮影も、なんでこんなことができるの? みどり、探偵の才能あるよ」

 あからさまにおだてられていることは、百も承知だった。おだてられているということは、馬鹿にされているということだ。餌をあげれば芸をする──そう思われてる。

「みどり、お願いだよ。平和な学校生活を取り戻したい。もう少しだけ、調査を続けてくれない?」

 怜は頭を床にこすりつけるように下げる。わたしはふーっとため息をついた。


 清田先生の行動パターンは、学校の時間割のように正確だった。

 先生はいま、部活の顧問をやっていない。帰宅するのは十九時ごろで、それからそのまま家の中に居続けるか、すぐに着替えて外に出る。後者の場合は、駅の売店でおにぎりやチョコレートバーを買い、ホームで食べながら電車を待つ。

 先生の行き先は、毎回違っていた。近くのあかばねに行ったり、少し離れたいけぶくろ西にしにつといったあたりまで足を延ばすこともあった。

 目的地は違うが、目的は同じだ。先生は、毎回、デートをしていた。

 呆れたことに、デートの相手は、好美だけではなかった。

 先生の相手は毎回違い、どの人も若かった。先生と同年代くらいの女性もひとりいたが、ほかはどう見ても女子高生だったり、下手をすると中学生に見えるような子もいた。知らないだけで、わたしの学校の生徒も交ざっているのかもしれない。

 わたしの尾行は、二週間にわたった。会った女性は全部で六人。先生たちはホテルに直行することもあるし、レストランで食事を取ってから行くこともある。清田先生は持ち前の甘いマスクを使って、多くの若い女性と関係を結んでいるのだ。萌音にいつ出くわすかとひやひやしていたが、幸い彼女の姿はまだない。

〈人間〉が、見えている。

 上手く言えないが、そんな感じがした。爽やかな若手教師としての表皮をめくった奥にある、彼の素の〈人間〉。匂い立つようなオスとしての魅力を放つ清田先生を見ていると、彼の本質がこちらにある感じがした。

「もうちょっと、調査を続けてほしい……」

 成果は着実に挙がっていたのに、怜はなかなかオーケーを出さなかった。

「ここまできたら、好美とのツーショットが欲しい。大勢の相手と関係してるってだけじゃ、ちょっと弱いと思うから」

「この、女子高生と会ってるやつは? 援交かもしれないよ、これ」

「これ、ほんとに女子高生かなー? 童顔の大学生かもしれないよ?」

 怜の要求はしつこく、わたしはなかなか調査をやめさせてもらえなかった。わたしの家を含めてあちこちを燃やすという彼女の話を、恐れていたのは確かだ。でも、それ以上に。

 わたしは、探偵というものを楽しんでいた。

 変装をし、尾行をし、写真を撮る。透明になり、覗き穴から世界を見つめ、ふと発生する隙間に顔をねじ込み、その奥に潜む〈人間〉を見る。甘美で、ひそやかで、背徳的な愉悦。趣味が悪いと自分でも思う。でも、そこには、あらがいがたい魅力があった。

 夜、駅前のカフェでコーヒーを飲むのが、すっかり日課になっていた。清田先生は出かけるとき、必ず電車を使う。夜の街に向かうのなら十九時半ごろに駅までやってくるし、それまでにこなければその日は何もない。

 カフェのガラスに、変装した自分の姿が映っていた。

 変装のやりかたがだんだん判ってきている。奇抜な恰好をすればいつもの自分から遠ざかることができるが、風景から浮いてしまっては意味がない。街の景色に溶け込むように、自然さを保つこと。普段の自分から、距離を持った他人になること。いい変装というのは、そのふたつが満たされているものだ。

 ガラスの中のわたしは、黒のキャスケットをかぶり、ぶち模様の眼鏡をしている。わたしはいつもより大人びていて、クールで、風景にしっかりと溶け込んでいた。

 自分の像の向こう、駅前に先生の影が現れるのを見て、わたしは席を立つ。

 切符を買い、改札をくぐる。清田先生は京浜東北線のホームに向かい、大宮行きの電車に乗った。わたしはいつものように隣のドアから乗り込み、扉の脇に立つ。

 今日は、好美と会うのだろうか。

 先生が大宮方面の電車に乗り込むのは、最初に尾行した日以来だ。好美とのツーショットが撮れたなら、怜もさすがに調査を打ち切るだろう。わたしもそこで、解放される。怜は放火をせずに済み、いじめの問題も解決する。めでたし、めでたしだ。

 ──でも。

 胸の奥が、少しうずいた。

「北浦和。北浦和でございます」

 次の駅で電車が停まる。開くドアから身をかわすように、わたしは少し動いた。

 そこで、わたしは固まった。

 わたしの目の前に、つりかわつかまった清田先生がいた。

 どうして? わたしはぼうぜんとしたまま、清田先生を見た。さっきまで向こうのドアのあたりにいたのに、どうしてここに?

 たぶん、なんとなく移動しただけだ。周囲が混んでいる。ほんの気まぐれ。電車の中を移動する理由なんて、それで充分だ。でも、ここまで距離を詰められてしまった理由は明白だった。わたしが、清田先生から目を離していたからだ。

 ふと、清田先生が顔をこちらに向けた。わたしはその視線に、もろにぶつかった。

 終わった。

 そう思った。清田先生はじっとわたしのことを見る。わたしは目を見開いたまま、死刑宣告を待った。

 何も、起きなかった。

 清田先生はわたしと目を合わせたあと、視線を外し、中吊り広告に目を向ける。わたしはゆっくりと頭を動かし、先生から顔を背けるように窓の外を見る。ほっと息をついた。どうやら自分が思っているよりも、変装が上手くいっているらしい。

 次の駅、に着いたのを機に車両を移る。もう目は離さないと誓い、わたしは先生の姿をとらえ続けた。

 清田先生は大宮で降り、最初の尾行のときと同じく歓楽街に向かっていく。わたしはキャスケットを脱ぎ、かばんからクリーム色のベレー帽を出して被り直した。帽子の色を変えるだけで、変装の印象をだいぶ変えることができる。これも、この二週間で得た技術だ。

 清田先生は以前と同じラブホテルに向かい、中に入っていく。わたしはおなかのあたりにデジカメを構え、その姿を撮影した。アクシデントはあったが、ここまでは順調だ。以前はたまたま成功したこの撮影方法も、きちんと練習して精度を高めてある。撮れた写真を見なくとも、上手くいった感触が指先ごしに伝わってきた。

 ひと仕事終えた脱力感が、身体に満ちる。そのときだった。

「榊原?」

 いきなり背後から声をかけられ、全身がびくっと反応した。

「何やってんの、お前」

 声色で誰かが判り、背筋が冷たくなる。わたしは振り返った。

 そこにいたのは、好美だった。

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