第4話



 次の日の夜──わたしは清田先生の家の前に立っていた。

 教員の住所は、学校の名簿には出ていない。たぶん、生徒が押しかけたり色々と不都合があるのだろう。怜は一度清田先生に年賀状を送ったことがあり、そのときにこっそりと住所を教えてもらったらしい。

 清田先生の家は、大通りに面した平屋の一軒家だった。家は塀で囲まれていて、「KIYOTA」という表札が出ている。

 塀に郵便受けがついている。とりあえず通行人がいない隙を見計らって中の郵便物を引きだしてみる。入っていたのはダイレクトメールばかりで、私信は見つからない。それ以上やることが判らず、わたしは郵便物を戻して家から離れた。

 ──で、何をすればいいんだろう?

 早くもやることがなくなった。父ならここから何をするのだろう? 部屋に忍び込んで盗聴器を仕掛ける? 望遠カメラで部屋の様子を撮影する? どちらもやりかたが全然判らない。わたしは大通りをまたぎ、家の反対側に立った。

 デジカメを取りだし、とりあえず家の写真を撮ってみる。去年買ってもらったお気に入りのカメラが、カシャリとれいな音を立てた。でも、撮れたのは何の意味もない写真だ。

 十分くらい立ち続けたところで、わたしはこれがかなりつらいということに気がついた。単純に立つことも大変だが、集中力を切らさずに家を見張り続けることが、思いのほかきつい。清田先生がいつ現れるのか、現れたとして何か意味があるのか、すべてが未定だ。多くの未定を抱えたまま、ただただ立つというのは、初めて味わうタイプの苦痛だった。父はいつも、こんなことをやっているのだろうか。

 へとへとになりながら三十分ほど待っていると、ようやく清田先生が帰ってきた。わたしは街路樹の陰に身を隠す。あれ、これ、何をすればいいんだろう。考えてみたものの、何も思い浮かばない。スーツを着た先生は門をくぐり、玄関を開けて中へ入っていく。長い間待ったのに、わずか十秒で先生の姿は見えなくなってしまった。

 ──何をやってるんだ、わたしは。

 家の中に電気がともる。こういうときは、塀を乗り越えて盗撮をすればいいのだろうか? でも、勝手に敷地に入ったらたぶん犯罪になってしまうだろう。

 自分が想像していた以上に、何をどうすればいいのか判らない。

 やっぱり、こんなことは無理だ。明日、怜に謝ってきちんと断るべきだと思った。ただ、断ったら怜は怒るだろう。彼女の憑かれたような目が、記憶の奥からわたしを睨んでくる。

 思考がぐるぐるしだしたそのとき──清田先生の家の電気が、消えていることに気づいた。

 門から清田先生が出てくるのが見えた。

 ガラリと雰囲気が変わっていることに、わたしは驚いた。黒いライダースジャケットとジーンズを着込み、夜なのにサングラスをしている。上背があってワイルドな服装からは、学校でのさわやかなイメージとは違う、粗野で暗い印象を受けた。

 わたしは、我に返った。これは──たぶん、尾行のチャンスだ。

 やりかたなど知らないが、やるしかない。わたしはとりあえず適度に距離を取り、先生のあとをつけることにした。

 五分ほど尾行をしたところで、判ったことがあった。清田先生はたぶん、あとをつけやすい。歩く速度は遅く、誰かとメールをしているのか、ずっとケータイを見ながら指を動かしている。わたしは距離を一定に保ちながら、先生のあとを歩いていく。

 清田先生が向かった先は、最寄りであるうら駅だった。先生は切符を買って改札の中に入っていく。十九時半。こんな夜に電車に乗って、どこに出かけるのだろう? わたしは一番安い切符を買い、あとを追った。

 先生が電車に乗るのを見て、同じ車両の違うドアから乗った。けいひんとうほく線のおおみや行き。電車に乗ってからも、先生はケータイを見つめたままだ。サングラスは外さずに、売店で買ったおにぎりを頰張っている。

 電車の窓ガラスに、わたしの姿が映っている。

 一応なんとなく、変装らしきものは施してきた。いつも下ろしている髪の毛をアップにし、口元をマスクで覆う。普段は地味なかつこうをしているので、母から派手な花柄のワンピースを借りてきた。だが、ガラスに映っているのは別人というよりも、単に変な恰好をしたわたしだ。先生に近づくのは、やめておいたほうがいいだろう。

 清田先生は、終点の大宮で降りた。ここで乗り換えてさらに遠くに行くことも覚悟したが、先生は改札を出て夜の街へと歩いていく。わたしは差額分を精算して、そのあとを追った。

 大宮で降りてからの先生は、様子が一変していた。

 歩くスピードは速くなっていて、時折立ち止まってあたりを見回す。何かを警戒しているようだった。少し見回されるだけで、これほどまでに尾行とはやりづらくなるものなのか。もっと地味な恰好をすればよかったと思いつつ、先生を見失わないぎりぎりまで距離を開ける。

 先生の様子が変わった理由は、やがて判った。大宮駅は駅前に繁華街があるのだが、先生が向かったのはその奥の、わいざつなエリアだった。

 ここは、風俗街だ。

「そこのキミ、暇? お金、困ってない?」

 黒いスーツのおじさんが話しかけてくる。わたしはそれを無視して、清田先生のあとを追う。こんな場所にきたのは、初めてだった。けばけばしいネオンサイン。性的なものを連想させるお店の名前。大事なところを隠した女性の裸がプリントされている看板。なんでこんなところまできてしまったのかと思いつつ、わたしは清田先生のあとをつける。

 先生が向かった先は、ホテルだった。たぶんこれがラブホテルというやつだろう。先生はひとりで中に入っていく。わたしは持ってきたデジカメを取りだし、シャッターを切った。

 ──風俗だ。

 ラブホテルに、先生はひとりで入っていった。予約を取り、中で風俗嬢を待つ──そんなシステムがあると聞いたことがある。

 ──これって、弱みを握れたってこと?

 爽やかで人気のある教師が、風俗に通っている。それ自体は犯罪ではないにせよ、教師としての清田先生の印象は、ダメージを受ける。生徒には知られたくないだろう。

「おい、お前」

 怜に手土産ができたと安心したそのとき、背後から声をかけられた。

 振り返ると、熊のような男性が立っていた。はんそでのポロシャツを着ていて、太い二の腕にいかついタトゥーが彫り込まれている。わたしは思わず、後ずさった。

「お前、いま、何を撮った?」

 男性はいらっていた。生まれてから、こんなに迫力のある声は浴びたことがない。

「ここ、どこだと思ってんだ。好き勝手に撮影していい場所じゃねえぞ。常識ってもん知らないのか、ガキ」

 全身が震えるほどの声だった。きゅっと内臓が縮こまる。どうやら、撮影したこと自体に怒っているようだが、そんなルールがあるのだろうか? それとも、この男性のほうがおかしいのか。

「質問に答えろ。いま、何を撮影してた?」

「ええと……」

 のどがからからになる。頭が真っ白になったまま、わたしは口を開いていた。

「あに、です」

「あに?」

 聞き返す男性の声が、自分の心の声とシンクロした。あに? 何を言ってる? わたしに兄などいない。

「そうです。兄の彼女さんから、兄が浮気をしてるんじゃないかって相談をされているんです。誰にも頼れないと言っていて、それでわたしが調査をやることになって……」

 言葉がするすると出てきた。こうなったらやけだ。わたしは続けた。

「大宮駅から兄を尾行して、気がついたらここまできてました。それで、兄が、そこのラブホに入っていくのが見えて、それを撮影してたんです」

 わたしはデジカメの両面に先ほど撮った写真を表示させた。男性は、大きな身体をかがめてのぞき込んでくる。

「すみません、わたし、こういうところにきたことがなくて……写真を撮るのがマナー違反ってことを知りませんでした。ごめんなさい。ここで生活をしている皆さんに、本当に失礼なことをしてしまいました」

「いや……まあ、そういうことか」

「本当にすみません。次から気をつけます」

 男性は気勢をがれたようだった。ぽりぽりとあごをかきながら言う。

「まあ、判ったよ。でもな、注意しなよ、お嬢ちゃん。誤解されるぞ」

「はい、本当にすみませんでした」

 もう一度頭を下げる。「早く帰んなよ」とつぶやき、男性が向こうへ去っていく。遠ざかる靴先を見ながら、わたしは驚いていた。

 思ってもいないことが、ぺらぺらと口をついて出てきた。人と話すのは得意なほうだと思っていたが、自分にこんなことができるなんて、初めて知った。

 いや、それだけじゃない。

 清田先生を、浦和から大宮まで見つからずに尾行した。写真の撮影もくいった。わたしは今日、色々なことに成功した。

 知らなかった。わたしは、こういうことができたんだ──。

 そのとき、わたしのすぐ脇を、ひとりの女性が通り過ぎた。

 その姿を見て、わたしは息を吞んだ。女性は清田先生が入っていったラブホテルの前で立ち止まり、店名を確認するように見てから中に入る。わたしはデジカメを取りだし、目立たないように、おなかのあたりに構えてシャッターボタンを押した。彼女の姿を、目に焼きつけるように見つめる。

 派手な私服を着ていたが、間違いない。

 ラブホテルに入っていったのは、好美だった。

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