第2話

 机の上には、紫の筆箱、紫のシャーペン、紫の表紙のノートが置かれている。紫色が好きなのではない。彼が身にまとう紫が好きなのだ。紫のカバーに入ったスマホから通知音が聞こえる。ピンポンダッシュのごとく、スマホを裏返す。ホーム画面に設定してある彼の写真の上に、彼のツイートを知らせる通知が飛んでくる。「22時から配信する。絶対来いよ。」その文字を見た瞬間、ガッツポーズをした。比喩表現ではない。実際にガッツポーズをした。引いた腕を戻すとき、握りしめた拳を机にぶつけた。鈍い痛みが走る。でも、口角は下がらない。痛覚を麻痺させる力が、彼のツイートにはある。

 彼との出会いは、中学三年生の時だ。叶いそうにもない片思いと受験勉強による孤独感に襲われていた時、友達に「推し」を布教されていたことを思い出した。放課後、一人の教室で窓際の席に座り、彼の名前を初めて検索した。叶わぬ恋の相手の席だ。1番上に出てきたおすすめの動画を見てみる。画面に映るのはイラストだけ。顔は映らない。先生を警戒してボリュームを最低限に下げたスマホに、耳を近づける。さっきまでうるさかった野球部の声が、いいバックサウンドになる。動画の後半に投げかけられた言葉によって、その声は完全に聞こえなくなる。「君は君でいいんだよ。」その日から、私は彼のとりこだ。彼のツイートには必ずリプを送る。YouTubeの動画が投稿されれば、いいねを押し、コメントをし、リンクをコピーしてTwitterで拡散する。配信は画面録画をし、お気に入りの場所は編集してSNSに投稿する。これらを3年間、こなし続けている。あれから恋はしていない。いや、彼に恋をしている(?)。叶わない片思いを3年間続けているのかもしれない。それでも、あの時とは違って幸せだった。孤独じゃなかった。彼が常に隣にいるようで、温かかった。

 昨日の夜からTwitterのタイムラインが騒がしい。彼に繋がりがいる疑惑が上がっているらしい。私は彼の言葉しか信じない。彼の言葉しか信じない。制服のまま机に突っ伏していると通知音が鳴る。染みついたスピード感でツイートを確認する。「20時から配信とるね。」寒気が走る。動機がする。どんどん早くなる。反対に、時間の流れは遅くなる。20時、スマホの前で正座をする。いつもとは違うトーンの彼の声。耳が彼の声を拒否しているみたいだ。それでも必死に彼の声を聴こうとする。「半年前からお付き合いしている方がいました。」目の前が真っ白になる。涙が、頬を滝のように流れる。一瞬だけ、やっぱりそうだったんだ、と思ってしまった。恋人がいた彼に対してよりも、やっぱりと思ってしまった自分に腹が立った。

 その後の記憶はない。気が付いたら朝になっていた。いつもより早く登校する。誰もいない教室の、窓際の椅子に座る。誰の席だっけ、ここ。驚くほどフラットな状態だ。彼につかれていた嘘の数々にも、腹が立たない。私が救われたあの言葉も、本心じゃなかったのかな、とも思ったが、あの言葉を受け取った自分は嘘じゃない。目の前が真っ白になろうとも、私が、3年間で積み上げてきたものはなくならない。私の体の1部になっている。私は、彼を嫌いにはなれないんだろうなと悟った。他人から見れば依存かもしれない。でも、私にとっては、成長だ。差し込む朝日に、目を細める。教室の窓を開け、澄んだ空気を精一杯吸い込む。昇降口から上がってくる生徒たちの様子を眺める。「君は君でいいんだよ。」ね。

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