推し事 お仕事

@Ayame-sizuku

第1話

 毎晩八時過ぎ、SNSの通知音が鳴る。急いでスマホを見る。「22時から配信する。絶対来いよ!」という見慣れた文章。口角が上がる。今日も会えると思うと、心が躍る。

 配信開始の瞬間、画面に降ってくる大量のアイテム。滝のように流れるコメントの数々。今日も今日とて、推し事、お疲れ様です。


 勉強は嫌いじゃなかった。新しいことを理解する過程が楽しかった。量をこなせば、数字として結果が得られることも嬉しかった。しかし、今は苦痛でしかない。一向に上がらない偏差値。変わらない志望校判定の文字。どんどん合格を勝ち取る推薦組のクラスメイト。毎日浴びる、親からの「がんばれ。」今日の二者面談で、担任から「絶対ここで逃げてはダメだよ。」と言われた。夏休みの三者面談でも同じことを言われた。「ここ」ってどこだよ。いつまで耐えたらいいんだよ。もう逃げたいよ。 そんな秋、何気なく見てしまった動画サイトで彼のことを知り、気が付けば、配信アプリをインストールしていた。初めて聴いた配信で、「逃げるも勝ち。しんどいときは、ちゃんと逃げてほしい。君が苦しむ姿は、見たくないよ。だから、ちゃんと逃げてくれると、僕も嬉しいんだ。」という言葉が、怖いほど身に染みた。ティッシュに落ちた水滴が、円状に広がって机にへばりつくように、怖いほど身に染みてしまった。次の日、少しだけメイクをして、制服を着て、いつもと同じ時間に家を出た。いつもは右に曲がる道を、左に曲がり、スカートを2回捲った。少しの罪悪感と開放感を纏いながら、懐かしい河川敷を訪れた。こんな時でも、カラオケとか、ショッピングモールに行けない自分に嫌気も差した。でも、そんなの、どうでもいい。規則正しくならんだ机も、生徒と教師を支配するチャイムもない、ここが気持ちいい。自分の体内と外気の濃度が、だんだん等しくなって、身体が軽くなる。親と手をつないでシャボン玉を吹く子ども。青空を凄まじい勢いで流れる薄い雲。

 その日の夜、彼の配信を聴きながら、三角関数の問題を解いた。次の朝、彼の歌を聴きながら登校した。その日の夜、彼の配信を聴きながら、英語長文の課題を進めた。体が軽かった。半年ぶりに、頭で考える前に、笑えた。受験前日まで、それを繰り返した。志望校のレベルを下げた。他人にしてみれば、堕落なのかもしれない。でも、この経験からは、敷かれたレールの上を歩くのをやめた。当たり前や普通に飲み込まれ、捕らわれるのをやめた。学歴を捨てて、生きやすさを手に入れた。

 この界隈に始めたハマり始めたとき、ファンの雰囲気に脅威を感じた。推しの一言に対して、大量の「はい」が流れてくる。一面が「はい」で埋まる。自分も「はい」と送信したら、この有象無象の中に飲み込まれてしまいそうで、嫌だった。でも、すでにその時点で、私は、世間の言う当たり前を、疑いもせずに受け入れて、有象無象の1になっていた。大学生になってからも、彼の配信を聴き続けている。コメントはしない。ライブでペンライトを振るのも好きじゃない。何千、何万の1だということを痛感させるからだ。

 誰かと同じになりたくない。普通になりたくない。私は、私という自我をもって生きたい。何者にもなれない、クソみたいな私の唯一の目標。


 私の腕の中で眠る子ども。高く短い通知音。表示されるメッセージ。「ゴメン。帰り遅くなる!」。昨日もそうだった。おとといは残業だったらしい。泣き声が聞こえて、視線を落とす。「泣きたいのは、こっちだよ」そう思ってしまった自分に嫌気がさす。最低な旦那より、こんな自分の方が嫌いだ。大嫌いだ。

 子どもが生まれてからずっと、この子と一緒にいるのに、途轍もなく孤独だった。公園を散歩していても、2人だけが透明のカプセルに捕らわれて、別の空間にいるような気分だった。しゃべれない子供と私の2人切りの孤独だった。そんなある日、BGMと化したテレビから流れてきた「私の推し特集」という言葉が耳に引っかかった。学生時代にハマっていたアイドルの顔を思い出す。あの頃は楽しかった。自分中心で自分の生活が回っていた。今の私に自分のことを考える余裕なんてないと思いつつ、脳と体が分離したような状態で、紹介されていた推し(?)を検索する。珍しく気持ちよさそうに寝ている子どもをベビーベッドに寝かし、配信画面を開く。大きな音に驚き、急いでボリュームを下げる。よかった。起きてない。ダイニングテーブルに腰掛け、端末から流れる声を聴く。ずっしりしているけど、優しくて心地のいい声。イヤホンをつけて聞きたかったけど、子どもへの注意が散漫になりそうでやめておく。それにしても、本当によく眠っている。自分の時間を確保できたのは、いつぶりだろうか。スマホの画面をもっとよく見てみる。大量のコメント。その左側に表示されるアイコン。紫色のものが多い。若く初々しい子たちが、軽くスキップするような速度で入力して、送信している様子を想像する。今思えば偏見だ。先入観だ。スマホの上半分には、サムネイルが表示され、キャラクターやらお茶やらが降っては消えていく。時々、大量のアイコンが降ってきて、そのたびに何事かと目を凝らす。どうやらアイテムを送れるらしい。アプリダウンロード時に配布された100ポイントを送信してみる。初期設定のままの自分のアイコンがサムネイル上を右から左へと流れていく。なんだか嬉しかった。なぜだろう。その後、彼の話し声とそれに対する活発なコメントを眺めているだけでも楽しかった。でも、また少し寂しくなった。500円分のポイントをためらいながら購入した。夫が稼いだお金だ。専業主婦の私は、すやすや眠っているあの子どもを生かすことと、夫の衣食住を支えることで精一杯だ。500円も自力で稼げない。塾をさぼってカラオケに行った、高校生のころのような気分になりながら、購入ボタンを押した。アイテムを送信する。さっきよりゆっくり自分のアイコンが流れるように見えた。この空間に自分の居場所を確保できたような気がして、温かい気持ちになった。お金を払って、居場所を得た気分になっているなんて、なんて浅はかなんだろうとも思ったが、それを上回る幸福感を得た。配信が終盤に差し掛かったときに言った彼の言葉に、1筋の涙が頬を伝った。「いつから君の物語の主人公は、君じゃなくなったの。君は十分がんばったよ。他人に迷惑かけるとか気にして、自分を殺して生きても、ハッピーエンドは迎えられないよ。周りより、君自身を見てみな。」完全に盲点だった。いつの間にか忘れていた。私の物語では、子供じゃなくて、子どもを育てる私が主人公だ。ベビーベッドで眠る子どもの顔を覗く。自然に口角が上がる。目じりが下がる。

 翌朝、洗濯物を干すためにベランダに出ると、洗濯竿についた昨日の雨粒が、きらきらとまぶしく反射していた。これをネックレスにして自分に付けてあげたいな。子どもの泣き声が聞こえる。目を覚ましたようだ。洗濯物を中断して、駆け足でベビーベッドに向かう。「おはよう。」


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