崔宏8  息子たち

崔宏さいこうの息子たちの話である。長子は崔浩さいこう。わざわざ別伝を立てるだけあるやべーやつであるため、また後日。


次子は崔簡さいかん、字沖亮ちゅうりょう崔覽さいらんと書かれることもある。學問を好み、幼い頃にはその書道の腕前で知られた。拓跋珪が即位して間もなくのころ、中書侍郎、征虜將軍を歴任。五等侯に封爵され、著作事業に参与し、死亡した。


三男は崔恬さいてん、字叔玄しゅくげん、幼名は白。給事中を歴任し、繹幕えきばく子に封ぜられた。上黨じょうとう太守、平南將軍、豫州よしゅう刺史に任ぜられ、陽武ようぶ侯に進爵された。崔浩が起こした国史事件に連座となり、処刑された。



崔宏が前秦ぜんしんの動乱に巻き込まれた頃のことである。はじめ崔宏は東晋とうしんへの亡命を志していたのだが、泰山たいざんにて張願ちょうがんに捕まり、その計画を頓挫させていた。このことについて自らをいたむ詩をものしていたが、公開はされなかった。世に出れば罰されるであろうことを恐れたのであろう。

やがて崔浩が処刑されると、拓跋燾たくばつとうの命によって高允こういんらが崔浩の屋敷のガサ入れに入る。そこで初めてその詩が明るみに出た。高允は速やかにその詩の意図を察したと言う。その詩は高允の孫である高綽こうしゃくが高允の著作集の中に採録した。



崔宏の父である崔潛さいせんが、兄の崔渾さいこんの死を悼むるいを自らの筆にて綴った。512 年ころ、著作佐郎の王遵業おうじゅんぎょうがたまたま市場で本を買ったときにこの誄の真筆に当たった。崔宏の父親の代ともなれば 350 年ころになる。そろそろ書かれてから 200 年にもなろうかというそれを王遵業は宝として秘蔵した。540 年代ごろ、王遵業の息子である王松年おうしょうねんが黃門郎の崔季舒さいきじょに進呈。人々が多く駆けつけ、皆が模写をした。当時の左光祿大夫であった姚元標ようげんひょうは当時を代表する書家であったが、崔潛の書を見るなり「わしでは到底かなわん」と語った。




次子簡,字沖亮,一名覽。好學,少以善書知名。太祖初,歷位中書侍郎、征虜將軍,爵五等侯,參著作事。卒。

簡弟恬,字叔玄,小名白。歷給事中,賜爵繹幕子。出為上黨太守、平南將軍、豫州刺史。進爵陽武侯。坐浩伏誅。

始玄伯因苻堅亂,欲避地江南,於泰山為張願所獲,本圖不遂,乃作詩以自傷,而不行於時,蓋懼罪也。及浩誅,中書侍郎高允受敕收浩家,始見此詩。允知其意,允孫綽錄於允集。始玄伯父潛為兄渾誄手筆草本延昌初,著作佐郎王遵業買書於市而遇得之。計誄至今,將二百載,寶其書迹,深藏祕之。武定中,遵業子松年以遺黃門郎崔季舒,人多摹搨之。左光祿大夫姚元標以工書知名於時,見潛書,謂為過於己也。


(魏書24-19)




なんか北魏書史に崔宏さんパパが燦然と輝いてしまった。これ北魏書史もきっちり調べ上げとくべきなんだろうなあ。面白そうだけどノータッチだったんですよね。

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