崔宏7  玄伯病篤

418 年夏,崔宏さいこうが重病になった。拓跋嗣たくばつしは侍中の穆觀ぼくかんを崔宏の元に赴かせ、その遺言を聞き取らせた。またその病状を確認させる臣下を常に派遣。一晩に何度も使者の往復があった。


崔宏が死亡すると、詔勅にてその痛切なるが表明され、司空が追贈され、文貞公と諡された。葬儀の祭礼は叔孫建しゅくそんけんの嫡子、叔孫俊しゅくそんしゅんが若くして死亡したのを惜しむに当たり「溫明祕器を与え、轀輬車に載せ、衛士に先導させ拓跋珪の陵墓に陪葬させる」前例に倣った。また群臣や周辺諸部族の酋長らに詔勅を下し、崔宏の葬儀に参列させた。親王以外はみな命に従い、葬送に参列した。


のちに孝文帝こうぶんてい元宏げんこうは北魏の過去の名臣らを再評価するに当たり、崔宏を廟庭に祀った。すなわち、国家の元勲に認定した。


崔宏は常々北魏朝廷に示されている公式文書や周辺諸部族に送る書面の筆記に関与しなかった。このため崔宏がものした文章はほぼ残っていない。とは言え草書や隸書、行書押書にはきわめて長けており、その書跡は世の規範となっていた。

崔宏の祖父である崔悦さいえつ盧諶ろしんはどちらも広く文芸を修めていることで名を知られていた。

なお、盧諶は鍾繇しょうようの書法を学んでおり、崔悅は衞瓘の書法を学んでいた。また両名とも索靖さくせいの草書を学んでおり、その再現度はきわめて精妙であった。盧諶は子の盧偃ろえんに、盧偃は更にその子の盧邈に伝える。崔悅もまた子の崔潛さいせんに伝え、崔潛もまたその子の崔宏に伝えたわけである。この三代はいずれも書家としての立場を廃さなかった。このため北魏初期には崔氏盧氏の書法がきわめて重んじられた。また崔宏の行書押書は特にその技巧が凄まじく、しかも決して書き損じがなかった。


子の崔浩さいこうが爵位を継承した。




泰常三年夏,玄伯病篤,太宗遣侍中宜都公穆觀就受遺言,更遣侍臣問疾,一夜數返。及卒,下詔痛惜,贈司空,諡文貞公。喪禮一依安城王叔孫俊故事。詔羣臣及附國渠帥皆會葬,自親王以外,盡令拜送。太和中,高祖追錄先朝功臣,以玄伯配饗廟庭。

玄伯自非朝廷文誥,四方書檄,初不染翰,故世無遺文。尤善草隸行押之書,為世摹楷。玄伯祖悅與范陽盧諶,並以博藝著名。諶法鍾繇,悅法衞瓘,而俱習索靖之草,皆盡其妙。諶傳子偃,偃傳子邈;悅傳子潛,潛傳玄伯。世不替業。故魏初重崔盧之書。又玄伯之行押,特盡精巧,而不見遺迹。子浩,襲爵,別有傳。


(魏書24-18)

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